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柳谷村誌

二 名荷踊り

 名荷踊りは、明治の初期に阿波の国(徳島)から、島之助という、田掘りを職とする人が名荷の舟戸の奥へ住んでいて、虫除け、農年踊りと称して、若い者に教えたのが始まりだといわれている。人々は島之助踊りと呼んでいた。
 当時の若い男女は、この踊りを習うことに熱中した。しかし、教える島之助とて働かねば食えない。若い男女は、習うためには、仕事の手間がえで田掘りもする、島之助が作っていた大豆が、早く取り入れないとはじいてしまうと大豆引きも手伝ったり、踊りの先生の面倒をみながら習ったものだという。
 舟戸の奥には、練習をする踊り場も造られて、昼間でも人目をはばかりながら、練習する太鼓の音がきこえたといわれている。名荷踊りは、明治、大正、昭和の時代へと、村里に娯楽の少ないこの時代、唯一つの楽しみとして、人々の心をなごませた。踊りは、歌が中心であって、いつの時代も歌い手がこの踊りを、ひき回してきたようであり、たくさんの歌詞を全部まる覚えして歌っていた。歌詞を書いたものは何もない、承継者はこれを聞き覚えということで、長い間に、ほとんど忘れられ残り少なくなっている(第一節民謡参照)。
 名荷踊りを習いはじめた人たちは、天保・安政・万延と古い生れの人たちであるが、踊りの全盛時代を通じて、歌い手としてまた踊り子として、この踊りを盛り上げてきた主な人で、わかっている人たちを記しておく。
 小崎伊勢太(本名は処平であるが、大変芸人であり、伊勢参りからはじめて、伊勢おどりも踊ったのであろうか、伊勢太と呼ばれるようになったという。大正七年死亡)・山本禮太郎(昭和一〇年死亡)・古川丑太郎(昭和九年死亡)・大上文蔵(昭和二八年死亡)・小崎シナ(昭和三八年死亡)・藤岡テル(本名はマン。昭和三二年死亡)・大上ハナヨ(昭和四八年死亡)・大崎ケサヨ(昭和三九年死亡)
 承継者は、明治三五年ごろからは、大上文蔵、大正九年ごろから山本郡四郎(昭和三三年死亡)、昭和八年ごろから、小崎杉夫(昭和五七年死亡)・大上今朝四郎(昭和五四年死亡)、昭和三〇年ごろから、大上高千代・村上栄喜・村上勲らによって保存会を設け、その承継につとめている。
 村では、この永い伝統のある名荷踊りを、後世に伝えるため、無形文化財にしてその振興をはかっている。