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柳谷村誌

編集後記

 昭和五四年六月、近澤村長の委嘱を受けて、高岸勝繁委員長のもとに柳谷村誌編集委員会が発足することになり、同年七月一一日に第一回編集委員会を開催した。
 伊藤義一・永井保一両顧問から、基本的事項のご指導を受け、編集の基本方針、部門別分担を決めて編集作業に着手することになった。
 いざ作業に入ってみると、資料の手がかりが得られにくいこと、委員がそれぞれ本務に追われて片手間の作業になったこと、作業途中次々転任があったことなど、予想以上の困難に遭遇して、作業は予定どおりすすまず、部門によっては足踏み状態であった。
 そのような状況下で五六年七月一七日、高岸委員長がご病気で急逝される事態となり、後任として私が委員長を命ぜられ引継ぐことになった。
 五六年一〇月一九日から城山貞恵氏を専門委員としてお迎えでき、編集方針の一部変更をして作業を継続した。城山委員のご熱意で、美川村大川、大庄屋あと土居寿次氏の全面的なご協力が得られ、多くの資料・古文書類の閲覧が許されることになり、城山委員のご努力によって解読の難しい古文書から、村にかかわりのある事項を書抜くことができ、村誌の前途に燭光を見出すことができたのであった。爾来、城山氏の精力的なご活躍によって執筆は急速に進んだが、各編の大部分は氏の労に負うところとなった。
 さらに、昭和五八年四月から稲田幸雄専門委員に加わっていただき、内容のより充実と完成に拍車をかけることとなったのである。
 何としても昭和五九年三月までに完成したい念願から、城山、稲田委員に森、高野委員も加わり、四名で夜を日についでの執筆となったので、全体的検討の時間的余裕もなく、全体の調和、不備、脱落事項などが気がかりである。
 「地名は大地に刻まれた索引である」といわれる村の地名の謎を解き明かしたい思いを抱きつつ、地名の提示のみに止めたので、今後の研究に委ねたい。
 五年の歳月を費やしたにしては、期待されるものにほど遠い感を深くするものであるが、本誌が将来補正充足されることを望むものである。
 本誌編集にご指導を賜った先生方、資料提供のご協力をいただいた方々、編集委員並びに執筆担当の各委員には献身的なご尽力をいただいたこと、そのうえ専門的立場から助言・指導をいただいた、(株)ぎょうせいの方々に、衷心からお礼申し上げて結びのことばとする次第である。

  昭和五九年三月

                            柳谷村誌編集委員長  森 一久