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四国中央市

近藤篤山(1766~1846)

 儒学者。宇摩郡小林村(現、四国中央市土居町)出身。23歳の時、大坂の尾藤二洲の塾で学び、後に昌平黌(しょうへいこう)の二洲の元で再び学問を続け、二洲門下の三傑に数えられた。
 寛政10(1798)年に川之江に塾を開き、享和2(1802)年には、小松藩主・一柳頼親に招かれ、培達校(ばいたつこう、翌年養正館〔ようせいかん〕と改称)の儒官となる。また、藩校以外にも自分の屋敷内に緑竹舎(りょくちくしゃ)などの私塾を建て、多くの子弟の教育に当たった。生涯、向学心を失わず、自らの誠実な日常生活をもって人を教育する「徳行天下第一」と称された。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

【追記】
 近藤篤山墓所:県立小松高等学校北側「篤志の坂」付近

【養正館について(養正館跡に設置された説明板より)】
   養 正 館 跡
 養正館というのは、小松藩の学校(藩校)のことです。小松藩では、学問の振興に力を注いできました。
 なかでも七代藩主一柳頼親(ひとつやなぎよりちか)公は、享和2年(1802)藩校である「培達校(ばいたつこう)」を開校し子弟の教育を始めました。
 その翌年の享和3年、さらに小松藩の教育体制を整えようと、近藤篤山先生を賓師の礼によりお迎えしました。
 篤山先生は、藩の参政であった竹鼻正脩(たけはなせいしゅう)と相談し、藩校の名称も「養正館」と改め、江戸の昌平黌(しょうへいこう)の制度を取り入れ、施設の拡充と教育内容の充実に努めました。この養正館では、藩士の子弟などに主として漢学や習字などの指導がおこなわれました。
 養正舘の教授役は、篤山先生から長男の南海(なんかい)・次男の簣山(きざん)へと受け継がれていき、小松藩の学風興隆の気風がたかまると共に、多くの有能な人材を輩出してきました。
 先人が培ってきた養正館の教育精神は、文化の里小松の根幹として、今も小松の教育に生き続けています。
 西条市教育委員会
                                                      

①生誕地

①生誕地

四国中央市土居町小林(讃岐街道沿い)

②篤山塾跡

②篤山塾跡

四国中央市川之江町(JR川之江駅西約500m)

③篤山邸跡

③篤山邸跡

西条市小松町新屋敷(JR小松駅南約500m)

④養正館址

④養正館址

西条市小松町新屋敷(JR小松駅南約500m)

⑤近藤篤山像

⑤近藤篤山像

西条市小松町新屋敷(JR小松駅南約500m、小松温芳図書館前)

⑥格蔵山にある墓碑

⑥格蔵山にある墓碑

西条市小松町新屋敷(小松高校正門付近)