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四国中央市

今城宇兵衛(1704~1734)

 宝永元年、豊田村(現四国中央市豊岡町豊田)の庄屋・今城久右衛門の子として生まれる。享保7年、19歳で庄屋となった宇兵衛は若い情熱を傾け村のために働いた。豊田村は、かつて河原尻村と呼ばれていたように、毎年のように豊岡川がはんらんして、田畑を流し住民を苦しめていた。宇兵衛はこの惨状を何とかしてなくそうと豊岡川の堤防改修を企図した。しかし、なかなかの大工事であるため幕府の許可がおりなかった。享保7年から12年にかけて再三飢饉や洪水が村を襲ってきた。享保13年、宇兵衛の願いがやっと聞きとどけられ、大町側492間、豊岡川362間の堤防を普請することとなった。だが、大変な大工事の上、享保14年には大洪水で工事が中断。15年は気候不順のため凶作、16年は長雨が続き、17年には大干ばつとなるなど工事は困難を極めた。しかし、宇兵衛たちの必死の努力により、享保17年12月、ついに完成し歓喜に包まれた。松山藩もその労苦をねぎらい宇兵衛に一石ニ斗の褒賞を与えた。ところが、翌享保18年は、農民の期待を裏切って未曾有の大飢饉となり、飢餓の者が続出するようになった。宇兵衛はたびたび減租を願い出たが、松山藩は藩政が混乱していたため一向に取り上げようとしなかった。宇兵衛はついに意を決し江戸へ直訴して窮状を打開しようとした。しかし、これが密告されたため宇兵衛は捕らえられ投獄された。藩の内紛発覚を恐れた松山藩は、直ちに宇兵衛の処刑を命じ、享保19年2月11日、村民哀泣の中で刑場の露と消えた。時に31歳。処刑数日後宇兵衛の願いが許され減租が実現する。宇兵衛は「梅花幻香居士」として今日も自ら築いた豊岡堤のほとりに祭られている。村民は、宇兵衛の徳を敬慕し、今城神社を建立し慰霊の祭りを絶やしたことがない。
 豊岡小学校東側の豊岡川堤防に、次のような今城宇兵衛頌徳碑が建立されている。

故 今城宇兵衛頌徳碑
    追慕故今城宇兵衛氏徳風昭和十年七月
    十日挙行二百年祭以英霊矣
            主催 豊田部落
             豊岡小校長 山上統一郎

(『伊予三島市史 中巻』より)

①今城宇兵衛顕彰碑Ⅰ

①今城宇兵衛顕彰碑Ⅰ

四国中央市豊岡町豊田(今城神社境内、豊岡小学校東側)

②今城宇兵衛顕彰碑Ⅱ

②今城宇兵衛顕彰碑Ⅱ

四国中央市豊岡町豊田(今城神社境内、豊岡小学校東側)

③今城宇兵衛頌徳碑

③今城宇兵衛頌徳碑

四国中央市豊岡町豊田(今城神社境内、豊岡小学校東側)