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西条市

河上哲太(1881~1952)

 連続9期28年間衆議院議員に在ったが、清貧に甘んじた高潔な政治家であった。明治14年10月19日、桑村郡国安村(旧東予市)で河上節太郎の長男に生まれた。34年西条中学校を卒業して東京高等商業学校(現一橋大学)に入学、徳富蘇峰の援助を受けながら苦学して同校卒業,、40年蘇峰の国民新聞社に入社して経済記者として活躍、勝田主計らの知遇を得た。大正6年4月第13回衆議院議員選挙に際し勝田主計の勧めで政友会から立候補、初当選した。以来、昭和20年追放を受けるまで当選回数連続9回、28年5か月にわたり代議士生活を続けた。この間、13年文部参与官などを務め、郷土のためには今治港開港や国有鉄道の誘致などに尽力した。昭和7年5・15事件で大養毅が暗殺された際には、「犬養の棺を擁して軍部と一戦を交うべき」と主張して軍部の台頭に対決、政党による議会政治を守ろうとした。しかし国家主義風潮の高まりの中で意のごとくならず、昭和11年2月第19回衆議院選挙を前に「私の力の限り国政に奔走しましたけれども、自分でも満足する功はなし得ず、殊にほとんど私事を顧みずして国政に奔走しました結果、男子として、将た人の子の親として為す可きことが全く荒廃に帰せんとして居ります」との挨拶状を出して引退を決意したが、支持者の許すところとならず代議士を続けた。 17年12月永年勤続議員の表彰を受け、19年2月郷里の懇請を容れて私立子安中学校の校長に就任、教頭芥川準一郎らの協力を得て育英に当たった。軍部独裁には迎合しなかったが、長老議員の立場上20年には大日本政治会愛媛支部長に就任した。これが公職追放指令の対象となり、21年10月追放、26年解除された。昭和27年11月17日71歳で没し、壬生川町新市長覚寺に葬られた。昭和39年故郷の国安に河上記念館と胸像が建立された。(『愛媛県史 人物』より)

①河上哲太翁之像Ⅰ

①河上哲太翁之像Ⅰ

西条市桑村127-1、国安公民館

②河上哲太翁之像Ⅱ

②河上哲太翁之像Ⅱ

西条市桑村127-1、国安公民館