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西条市

丹 美園(1825~1875)

 教育者。文政8年。熊本藩士野津隆岱の娘として江戸永田町細川公邸内で生まれる。父は漢学者で「鎮山人」と号して南画も描いた。6歳のとき父が死去し、兄の玄貞が家督を継いだ。兄は佐久間象山の門弟であった。美園の夫である小松藩士丹信積は、近藤篤山の高弟であった。天保14年、19歳で信積と結婚し翌年、娘の文が生まれる。夫妻ともに俳諧もよくしたようで、嘉永4年に出た小松藩士で俳人の長谷部映門の句集「別れ霜」には二人の句が出ている。また夫妻は能筆で習字の手本も共同作成する。安政5年江戸詰めを終えて信積と美園は小松に帰る。帰藩して丹屋敷で婦女子のみを教える寺子屋を開いた。これは近代愛媛の女子教育草創のことである。妻の名で自宅に寺子屋をひらくことは、夫信積の格段の理解と当時の小松藩一柳頼紹のひごがあったことはいうまでもない。美園は「美人であるとともに博学で、いろいろな芸事もよくでき、御殿にあがって姫君や奥女中たちに教えていた」という云い伝えも残っている。美園の教育信条には近藤篤山の「四如の喩」があったと考えられる。明治4年の廃藩後も寺子屋をつづけ、学制頒布後毛「女児校」として公認される。明治6年、県内69校の小学校のうち女児校は4校があったが小松の女児校は77名の女生徒がいたという。このように小松における女子教育機関は県内第一号としての美園の寺子屋創立にあったといえよう。明治8年12月、5O歳で病没し、小松町藍刈の丹家墓所内に夫の墓とならんで葬られている。(『愛媛県史 人物』より)


①愛媛近代女子教育発祥之地碑

①愛媛近代女子教育発祥之地碑

西条市小松町新屋敷甲3008(小松公民館南)

②小松実用女学校跡地に建つ碑

②小松実用女学校跡地に建つ碑

西条市小松町新屋敷甲3008(小松公民館入り口付近)