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今治市

学信(1722~1789)

 享保7年~寛政元年(1722~1789)浄土宗僧。譚は学信。字は敬阿、正蓮社、行誉は嗣法の嘉号。今治鳥生の生まれ。亡母の棺中にて生まれたという伝説がある(『続近世畸人伝』)。幼くして今治の円浄寺真誉上人により剃髪し、勉学、20歳の時江戸の増上寺に籍を置いて精勤苦学する。それから瓢然と京都へ上り、長時院湛慧和上を訪ね、菩薩の大戒を受け「尽形寿」の八斎戒を受ける。高野山へのぼり修行後、伊予岩城島の浄光寺に招かれ、父の死をみとったのち宮島の光明院に入る。松山の長建寺から招かれ、さらに藩主定静の招請でその菩提寺である大林寺に移る。天明元年石原勘助助命の嘆願を藩主定国に容れられず、大林寺を去って宮島光明院に帰る。寛政元年6月7日67歳で没す。著書に『要学集』『蓮門興学篇』、また和歌漢詩集に『幻雲集』がある。伝記『学信和尚行状記』は門弟僧敏の著。(『愛媛県史 人物』より)

【粟乃井井戸前の句碑】
 すめる世に またも粟井の 水ならば たち帰り来て かげうつさまじ

【粟之井井戸の由来】
 此の井戸は、古来粟粒の様な水がブツゝといづむところから「粟乃井」とよび、粟井郷(後の粟井村)の地名の起りとなり、又一名大師水とも伝えられ、難所粟井坂の登り下りの道行く人々の渇(かわき)を癒して大変親しまれたものです。
 碑の和歌は、学信和尚が松山の大林寺を去って粟井坂に来たときよんだものです。
(粟乃井井戸の説明板より))

①粟乃井井戸前の句碑

①粟乃井井戸前の句碑

松山市小川(粟井坂大師堂付近)

②粟乃井井戸

②粟乃井井戸

松山市小川(粟井坂大師堂付近)