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今治市

長谷部九兵衛(生年不詳〜1709)

 野間郡波方村(現波方町波方)に生まれる。明暦2年(1656)父義信が隠居し同村庄屋役を継ぐ。松山藩浦手役として二人扶持を給される。波止浜塩田の創始者。甚七(郎)、左兵衛、諱は義秀。遠浅の波止浜の地が塩田築造に適しているのをみて延宝9年2月、松山藩に築造の願書を提出、更に芸州の竹原で製塩技術を学んだ。天和2年(1682)6月、藩庁へ工事の計画書、見積書を提出し、翌年正月着工、3月には汐止めが完了して年内には33軒の塩浜が完成し、九兵衛は塩浜支配方の1人に任じられた。庄屋在役32年、貞享4年(1687)には嫡子義重に譲って隠居したが、この時藩から褒美の米を贈られている。宝永6年9月29口死没、墓は波方村宮の下にあり法名は楽邦祥雲居士。(『愛媛県史 人物』より)

【波止浜塩田と汐止明神】
 波止浜塩田は、天和3年(1683)波方村「長谷部九兵衛」の努力で完成した県内最古の「入浜式塩田」でありました。
 九兵衛は波止浜湾が遠浅で塩田の造成に最適と考え松山藩に塩田築造の許可を得て、塩田の築造を始め、広島県の竹原に渡り塩田の研究をしました。。
 当時の竹原ではその権利を守るため、塩田の構造や製塩法は門外不出で極秘になっていましたが、九兵衛は人夫として浜に近づき近隣の人々の信用を得て、塩田の臨時人夫として雇われ、塩田の構造や製塩法を熱心に研究し、天和2年(1682)藩に願い出て、種々の難工事を成功させ入浜式の塩田を築き、難工事の無事完成と切れやすかった堤防の安全を祈って人柱のかわりに牛一頭を埋め、そこに松を植え、小祠を建てて「汐止明神」としてお祭りし、浜の安全と牛の霊を慰めたと伝えられている。
 塩田は4回にわたって増設され70余町の大塩田となり波止浜はこの塩田により大いに町が繁栄しました。戦後昭和25年に流下式塩田に改造し、生産量を増し、更に昭和29年には、塩化ビニール塩田等を採用し近代製塩技術を取り入れたが、化学製塩時代となり小話34年に至り廃止された。そばにある碑は塩田の功労者、長谷部九兵衛の頌徳碑で、昭和29年建立されたものであります。
 入浜式塩田とは満潮面より高い海面へ海水をくみあげて作っていた揚浜式の製塩法に対し、満潮面より低い地面へ干満の差を利用して海水を引き入れ製塩する方法です。(長谷部九兵衛翁顕彰碑付近の説明板より)

①長谷部九兵衛翁頌徳碑

①長谷部九兵衛翁頌徳碑

今治市内堀1丁目(国道317号沿い、久保病院付近)

②汐止明神

②汐止明神

今治市内堀1丁目(国道317号沿い、久保病院付近)

③龍神社

③龍神社

今治市波止浜1丁目2-13

④龍神社の鳥居

④龍神社の鳥居

今治市波止浜1丁目2-13