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上島町

濱田國太郎(1873〜1958)

 労働運動家。越智郡生名村善太郎の長男として生まれる。明治18年、12歳のとき帆船為朝丸の給仕となり、その後英国、ノルウェー船の外国船に転乗したのち日本郵船に入る。明治39年、佐渡丸火夫長時代に郵船会社の火夫長に呼びかけ、機関部倶楽部を創立し、その後機関部同志会と改名した。 41年頃に甲板部員を網羅する共済会という団体が生まれ、ここに甲機の二つの組合が誕生した。しかし、同一産業に働いているすなわち一家族であるべき者が、自然対立的となることはまぬがれないということから、機関部同志会を解消して日本船員同志会と改め、全海員を網羅して、会長に代議士海軍少将の井上敏雄を迎え、副会長に浜田が就任した。 42年賃上げ要求闘争後会長となり、停船ストによって要求実現をめざし、水上署に検束されるが、船員の昇給は実現する。大正元年に、鈴木文治によって友愛会が創立され、同3年に海員部長となる。大正9年I.L.O第2回国際労働総会を海事総会として開くにあたり、代表としてイタリアのジェノヴァに赴く。大正10年(1921)日本海員組合が結成され、浜田は副組合長に選任されるが同年10月辞任。昭和2年より10年まで組合長就任、昭和3年最低賃金制の確立をめざしゼネストによって社外船365隻停船のすえ協定実現、昭和4年のI.L.O.第13回国際労働総会にも代表として出席、昭和7年には日本労働組合会議議長となり、名実ともに日本労働運動界のチャンピオンとなる。その後、生来の信仰心と祖先崇拝の気持から剃髪して神戸市雷声寺の住職となる。
 「気骨稜々の士」として「近代の倭寇」と呼ばれ、昭和10年には生名村に銅像が建立され、今日「報海国」の台座が残っている。戦後は、司法保護司など、青少年の育成事業に精力を注いだ。昭和33年85歳で没する。小学校も卒業せず、字もよめなかった彼が船員という特殊な環境の中でのし上がり、日本労働界にさんぜんと光を放つ功績をあげたことは偉大といわなければならない。戒名大真了功居士。(『愛媛県史 人物』より)

①生名総合支所付近にある案内板

①生名総合支所付近にある案内板

越智郡上島町生名621-1付近

②台座付近の歌碑

②台座付近の歌碑

越智郡上島町生名544-2付近

③銅像台座

③銅像台座

越智郡上島町生名544-2付近