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松山市

加藤拓川(1859~1923)

 外交官。政治家。正岡子規の叔父。伊予松山藩の儒学者で、明教館教授を勤めた大原観山の三男として安政6(1859)年1月22日、松山城下の歩行(かち)町(現、松山市)に生まれる。本名は恒忠。旧姓は大原。号の「拓川」は、松山市郊外を流れる「石手川」に由来する。幼くして儒学に親しみ、藩校・明教館に学び、秋山好古と親交をもつ。甥の子規を生涯にわたり支援した。
 フランス留学を経て外務省に入り、外務大臣秘書官・ベルギー公使等を歴任後、明治41(1908)年、衆議院議員、のち貴族院議員。明治40(1907)年には、大阪北浜銀行(現、三菱UFJ銀行)頭取や改進党系の新聞『大阪新報』の社長もつとめた。
 大正11(1922)年、ガンに冒された体ではあったが、要請されて第5代松山市長に就任、城山公園の払い下げを陸軍省から受けて市民に開放する等、リベラルな政策を遂行する一方、北予中学校(現、県立松山北高等学校)の加藤彰廉(かとうあきかど)校長から、松山に高等商業学校(現、松山大学)を設立する提案を受けて友人の新田長次郎に設立資金の支援を依頼した。また、文部省との設置折衝を行う等、学校設立運動の中心的な役割を果たした。
 大正12(1923)年3月26日、65歳で死去。勲一等旭日大綬賞が贈られた。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

【正岡子規の句碑】
 真宗の 伽藍いかめし 稲の花

①お墓のある相向寺

①お墓のある相向寺

松山市拓川町7-6

②正岡子規の句碑

②正岡子規の句碑

松山市拓川町7-6(相向寺内)

③肖像写真(生涯学習センター所蔵)

③肖像写真(生涯学習センター所蔵)