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松山市

勝田主計(1869~1948)

 県人初の大蔵大臣。松山城下の御宝(みたから)町(現、松山市)出身。松山中学校(現、県立松山東高等学校)在学中は、正岡子規や秋山真之らと親交があり、明治19(1886)年に東京の第一高等学校(現、東京大学教養学部)へ進学してからは常盤(ときわ)会宿舎で子規らとともに生活し、野球や俳句に親しんだ。
 帝国大学法科大学(現、東京大学)卒業後、大蔵省(現、財務省・金融庁)に入省。日露戦争後の公債の整理にあたったほか、東洋拓殖会社・韓国銀行(後、朝鮮銀行に改称)の設立など対外的な仕事に従事した。退官後、貴族院議員に勅撰され、大正4(1915)年12月から大正5(1916)年10月まで朝鮮銀行総裁を務め、同年12月に県人初の大臣として寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣で大蔵大臣に就任した。その後、清浦圭吾(きようらけいご)内閣で再度大蔵大臣、田中義一内閣で文部大臣に就任した。
 主計は大蔵官僚出身で三度大臣になる特殊な経歴をもったが、朝鮮銀行総裁を含め、いずれも時の責任者の強い要請でその職に就いている。そのため在任中に手掛けた仕事は多く、大蔵大臣であったとき、強力な日中提携関係構築のため清国への積極財政の展開(西原借款)や、関東大震災後の復興のための外債発行などを手掛けた。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

①勝田主計の銅像Ⅰ(伊藤五百亀 作、題額は十河信二 筆)

①勝田主計の銅像Ⅰ(伊藤五百亀 作、題額は十河信二 筆)

松山市杉立町杉立山頂上(ロープウェイ廃止のため、山頂まで悪路)

②勝田主計の銅像Ⅱ(伊藤五百亀 作)

②勝田主計の銅像Ⅱ(伊藤五百亀 作)

松山市杉立町杉立山頂上(ロープウェイ廃止のため、山頂まで悪路)

③道後公園内の伊予絣創始頌功碑Ⅰ(扁額の題字 勝田主計 筆)

③道後公園内の伊予絣創始頌功碑Ⅰ(扁額の題字 勝田主計 筆)

松山市道後公園

④道後公園内の彰功碑Ⅱ(扁額の題字 勝田主計 筆)

④道後公園内の彰功碑Ⅱ(扁額の題字 勝田主計 筆)

松山市道後公園

⑤貞婦 渡邊スエ女 表彰碑Ⅰ(碑文 勝田主計 撰)

⑤貞婦 渡邊スエ女 表彰碑Ⅰ(碑文 勝田主計 撰)

西条市三芳1415 弘福寺

⑥貞婦 渡邊スエ女 表彰碑Ⅱ(碑文 勝田主計 撰)

⑥貞婦 渡邊スエ女 表彰碑Ⅱ(碑文 勝田主計 撰)

西条市三芳1415 弘福寺