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松山市

一遍(1239~1289)

 鎌倉時代の僧。時宗の開祖。伊予国風早(かざはや)郡河野郷(現、松山市)の豪族・河野通広の子で、宝厳寺の別院で生まれた。宝治2(1248)年、母の死に無常を感じ、また父の命もあって出家し、通広と縁のある筑前国(現、福岡県西部)の僧・聖達(しょうたつ)の元へ行き、聖達の勧めで肥前国(現、佐賀県)の僧・華台(けだい)の弟子となった。
 父の死により一時還俗(げんぞく)したがすぐに再度出家し、信濃国(現、長野県)の善光寺に参篭(さんろう)して二河白道図(にがびゃくどうず)を写し、故郷に帰って浮穴(うけな)郡の窪寺に庵室を結び、その絵を本尊として修業した。この山林修行の間に、信じる信じないにかかわらず南無阿弥陀仏の名号を唱えれば、出家と在俗、貴賎男女の区別なく往生できるという十一不二(じゅういちふに)の法門を領解し、そして「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と書いた念仏札をくばる賦算を行った。また、踊念仏を行い、貴賎を問わず、広く老若男女に支持を受けた。その念仏勧進の旅は、南は九州大隅(おおすみ)国(現、鹿児島県)から、北は陸奥(むつ)国江刺(えさし)(現、岩手県)にまで及び、各地に念仏踊りとして伝えられている。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

【窪寺念仏堂跡に建つ碑】
 身をすつる すつる心を すてつれば
 おもいなき世に すみそめの袖
                一遍
  


①宝厳寺(一遍出生の地)

①宝厳寺(一遍出生の地)

松山市道後湯築町5-4

②窪寺念仏堂跡に建つ碑

②窪寺念仏堂跡に建つ碑

松山市窪野町北谷

③窪寺閑室跡、窪寺遺跡

③窪寺閑室跡、窪寺遺跡

松山市窪野町北谷

④時宗の四条道場跡に建つ石碑

④時宗の四条道場跡に建つ石碑

京都市中京区新京極四条上ル西側(染殿地蔵)