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松山市

森盲天外(1864~1934)

 地方政治家。伊予郡西余戸村(現、松山市)出身。本名は恒太郎。若くして県会議員として活躍するが、両目を失明する。失意の中で、一粒の米を手にして心眼を開き比叡山で修業をした。明治31(1898)年、郷里の強い要望で余土村(現、松山市)村長に就任、綿密な実態調査に基づいて作成した「余土村是」で名声を高めた。盲天外は自らが先頭に立って勤倹貯蓄、肥料などの共同購入、小作人保護、耕地の改良、青少年教育、副業の奨励を行い、余土村は模範村として全国で有名になった。
 明治40(1907)年、村長を勇退、功労金で私立松山盲唖学校(現、県立松山盲学校及び松山聾学校)を設立した。晩年は青年教育のため道後に「天心園」を開き道後湯之町町長を務めた。俳句をよくし、正岡子規に師事し「天外」の号を受けたが自らは「盲天外」と称した。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

【追記】
 森盲天外墓所:松山市出合の共同墓地内(出合大橋北交差点東側)

【道後放生園内の句碑】
 伊予とまうす 国あたたかに いで湯わく

【道後俳句の道にある句碑】
 伊予と申す 国あたゝかに 温泉わく

①道後放生園内の句碑Ⅰ

①道後放生園内の句碑Ⅰ

松山市道後湯之町6-8(道後温泉駅近く)

②道後放生園内の句碑Ⅱ

②道後放生園内の句碑Ⅱ

松山市道後湯之町6-8(道後温泉駅近く)

③道後俳句の道にある句碑(ひめぎんホール横の通り)Ⅰ

③道後俳句の道にある句碑(ひめぎんホール横の通り)Ⅰ

松山市道後町2丁目

④道後俳句の道にある句碑(ひめぎんホール横の通り)Ⅱ

④道後俳句の道にある句碑(ひめぎんホール横の通り)Ⅱ

松山市道後町2丁目