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松山市

石田波郷(1913~1969)

 俳人。温泉郡垣生村(現、松山市)出身。本名は哲大。松山中学校(現、県立松山東高等学校)在学中に同級生の中富正三(大友柳太朗)の勧めで俳句を始め、村上霽月の今出吟社の句会に参加。五十崎古郷に指導を受け、水原秋桜子主催の俳誌『馬酔木』に投句を始めると秋桜子門下の代表的俳人となった。その後、昭和7(1932)年に上京して多くの俳人や作家と交流、俳誌『鶴』を主宰して人間探求の句を主導し、中村草田男、加藤楸邨らとともに「人間探求派」と呼ばれた。
 しかし、太平洋戦争が勃発すると、昭和18(1943)年、徴兵され戦場に赴いたが、慣れない軍隊生活と過労から重い結核に罹った。その後生涯にわたり入退院を繰り返しながら闘病生活を送ることとなるが、それらの体験を通して自分を見つめた数々の素晴らしい俳句が生まれた。「遠く病めば銀河は長し清瀬村」の句が収められた昭和25(1950)年刊行の句集『惜命』は、闘病俳句の最高傑作と称えられた。また波郷は、総合俳誌『現代俳句』の創刊、現代俳句協会の創立など、戦後の近代俳句の再建に力を尽くした。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)

【長楽寺の句碑(中央)】
 寒椿 つひに一日(ひとひ)の ふところ手

 右の句(正岡子規):おもしろや 紙衣毛(かみこも)著(き)ずに 済む世なり
 左の句(村上霽月):初暦好日三百六十五

【定秀寺の句碑】
 泉への 道後れゆく 安けさよ

【愛大附属小学校東側の句碑】
 人はみな 旅せむ心 鳥渡る

【道後喜多町 俳句の道の句碑】
 ほしいまゝ 湯気立たしめて ひとり居む

①長楽寺の句碑

①長楽寺の句碑

松山市西垣生町1250

②定秀寺の句碑

②定秀寺の句碑

松山市神田町4-26

③愛大附属小学校東側の句碑

③愛大附属小学校東側の句碑

松山市持田町1丁目5-22(愛媛大学附属小学校)

④道後喜多町 俳句の道の句碑

④道後喜多町 俳句の道の句碑

松山市道後喜多町(大黒屋道後店付近)