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松山市

井上要(1865~1943) 

 実業家・県会議員・議長・衆議院議員。明治・大正・昭和期を通じて県政財界の中心人物であった。慶応元年5月5日、喜多郡菅田村(現大洲市)の庄屋有友平衛の長男に生まれた。県会議員・代議士として活躍した有友正親は姉婿であった。明治6年村立時習学校、12年共済中学校(現大洲高校)に入学したが、13年退学して宇和島鈴村譲の漢学塾明達書院で学んだ。15年17歳のとき上京したが病のため帰省、16年村内士族井上コンの養嗣子となり、井上姓を名乗った。 17年松山道後に移り、法律学を独学して18年代言人試験に合格、 19年東京で司法省試験を受けた、20年松山市二番町で代言人事務所を開いた。同年伊予鉄道会社取締役に選ばれたが翌年辞職して上京、東京専門学校(現早稲田大学)に留学して23年帰郷、高須峯造と共同事務所を開設した。同年改進党に入り、明治23年7月の第1回衆議院議員選挙では義兄有友正親を応援した。26年伊予鉄道会社監査役、32年専務取締役となり39年同社社長に就任して生涯伊予鉄道の発展に尽した。政治面では明治30年10月県会議員に当選、12月議長に選ばれて35年8月までその地位にあった。35年8月第7回衆議院議員選挙で当選、36年3月、37年3月の衆議院議員選挙にも連続当選したが、41年5月の選挙に際し才賀藤吉を後継に指名して立候補を辞退した。この間、31年8月憲政党愛媛支部の幹事となり、同党が分裂した後も藤野政高と海南政友会を結成して民党合同を維持したが、やがて周囲の事情でこれを解散した。36年11月愛媛進歩党を結成して中央の憲政本党一国民党と気脈を通じ、その代表幹事として藤野政高らの政友会と激しい政争を展開した。40年県知事安藤謙介と藤野ら政友派が三津浜築港など22か年大上木事業計画を推進したので、これに強く反発し愛媛新報に「安藤知事横暴史」を連載して世論を喚起した。代議士を勇退した後は伊予鉄道を中心に事業に専念、大正2年には伊予水力電気会社社長を兼ねて5年伊予鉄道会社と合併、9年には明治42年以来ライバル会社として激烈な競争を展開した松山電気軌道会社を併合した。昭和2年松山商工会議所会頭に推され名実ともに県経済界の代表となった。8年69歳で伊予鉄道電気会社会長と松山商工会議所会頭を辞職、退職金を県立図書館建設資金に寄贈した。この間,県内教育・文化の発展にも尽し、伊予教育義会会長・北予中学校理事・松山高等商業学校理事などを歴任して、青少年のために道後グランドを造成したりした。また伊予史談会を援助して自らも多くの論文を寄稿した。悠々自適の高浜不去庵で昭和18年3月18日77歳で没した。松山市末広町正宗寺に葬られ、徳富蘇峰の撰になる頌徳碑が松山市の愛媛県立図書館前に建てられたが、現在は同市梅津寺公園に移されている。徳富蘇峰は「此人は誠に手堅い人である。此人ならば決して脱線等といふことはあり得る人ではないといふ堅実感を与ふる人だ」と評した。(『愛媛県史 人物』より)


①井上要君像

①井上要君像

松山市文京町4-1(愛媛県立松山北高等学校内)