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松山市

松田喜三郎(1880~1946)

 松田ヒラミンを創業、県会議員・議長、衆議院議員、北条・粟井町長。明治13年3月12日、風早郡菅沢村(現松山市五明)に生まれ、30年4月同郡北条町鹿峰(玖水錦)の松田三平の婿養子に入った。 37年1月松田博愛堂を創業して薬種商を始めた。 41年7月、ヒラミン・アイロミン・日本目薬・胃腸丸・六神丸などの製薬を開始、大正7年の〝大正風邪〟大流行に際し解熱剤〝ヒラミン〟の売れ行きが大きく伸び、全国に知られた。大正4年9月県会議員に選ばれ昭和5年2月まで連続5期在職し、大正15年12月~昭和2年9月議長を務めた。党派は政友会に属していたが、13年政友会分裂の際小野寅吉ら10県会議員と共に政友本党に走りその支部を結成して幹事長になり、昭和2年憲政会との合同に伴い民政党に属した。昭和5年2月の第17回衆議院議員選挙第1区で民政党から立候補して武知勇記らと共に初当選、7年2月の選挙には落選したが、11年2月第19回衆議院議員選挙で国会に返り咲き、12年4月の第20回衆議院議員選挙でも再選され、17年4月まで代議士であった。家業の傍ら、大正12年10月には松山自動車会社を創設して北条一松山間にバスを運行するなど事業欲は衰えなかった。昭和2年8月北条町町長になり、倉敷紡績北条工場の誘致などに政治力を発揮し、6~10年には北条港の改修工事を県の補助で実施した。10年北条町長を辞任したが、13年4月懇請されて郷里粟井村村長になり3か年務め、17年5月一切の公職を辞した。昭和21年2月15日65歳で没し、粟井村蓮福寺に葬られた。 28年北条町長時代に掘削した俵原池畔に〝豊穣の源〟の記念碑が建てられ、33年には市役所(現松山市役所北条市所)前庭に頌徳碑が建立された。(『愛媛県史 人物』より)

①松田喜三郎頌徳碑

①松田喜三郎頌徳碑

松山市北条辻6(松山市役所北条市所)

②蓮福寺

②蓮福寺

松山市粟井河原325

③松田喜三郎先生供養塔

③松田喜三郎先生供養塔

松山市粟井河原325

④蓮福寺の句碑

④蓮福寺の句碑

松山市粟井河原325