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久万高原町

桧垣伸(1850~1924)

 嘉永3年~大正13年(1850~1924)県官。上浮穴郡郡長として郡内の開発に当たった。嘉永3年9月18日、松山藩士野田惟徳の次男に生まれた。幼名友諒。安政6年9歳のとき、桧垣家の養子となった。慶応2年藩校明教館に入学、明治2年同館助教を命ぜられた。4年学術修行のため高知藩に留学、5年松山の啓蒙学校校長を拝命、8年学区取締となり、9年愛媛県師範学校創立事務長、続いて同校監事を務めた。明治11年12月県令岩村高俊に抜擢されて下浮穴郡長に任じ、12年伊予郡長を兼任した。14年上浮穴郡長に転任、以後27年まで同郡長に在職した。
 就任早々、旧藩時代以来の天災飢饉に備えての備荒儲蓄制度を継続し、これの維持方法として23年久万凶荒予備組合を組織した。ついで上浮穴の開発は道路の整備にありとして、梅木正衛らと図って三坂峠開さくの実現を県に運動した。これが、県令関新平を動かし、高知-松山間の「四国新道」開さく計画に発展した。明治19年工事が始まると、郡民の夫役を供出して全面的に協力、20年三坂峠の開さく完工に導いた。ついで四国横断鉄道敷設運動を始め、郡長退職後もこれを生涯の念願として各方面に説いた。大正9年横断鉄道陳情で上京の帰途大阪で罹病、13年11月15日、74歳で没した。久万町真光寺に葬られ、上浮穴郡の発展のため捧げた生涯をたたえて三坂峠の頂上に頌徳碑が建てられた。(『愛媛県史 人物』より)

【追記:桧垣桜公園について(写真②)】

     久万地域の発展を願って

 明治14年第2代の上浮穴郡長となった桧垣伸さんは、上浮穴郡の発展には道路を整備することが重要だと考え、各方面に熱心にはたらきかけ、郡民の先頭に立って多くの困難を乗り越え、7年間の歳月をかけて、国道33号の開通を成し遂げました。
 そのほか、久万凶荒予備組合結成の基礎をつくったり、また、植林や三椏の栽培を進めるなど、上浮穴郡の発展に大きな力を注がれました。
 桧垣伸さんの業績をたたえる、道路開通の記念碑は、現在も三坂峠に建てられています(写真①)。
 伸さんのお孫さんで東京にお住まいだった、桧垣端さんは、おじいさんの素晴らしい業績に強く心を打たれ、久万地域の人々が、地域を大切にする心を一層強め、久万の地域がますます栄えることを願い、平成13年、久万町に3,000万円というたくさんのお金を寄付されました。
 桧垣伸さんの尊い業績と、桧垣端さんのご意志に深く感謝し、そのご意志を受け継ごうとの強い決意で、桧垣端さんの寄付金をもとに、ここに「桧垣桜公園」をつくり記念碑を建てて記念します。
   平成24年3月吉日        桧垣伸翁を顕彰する会

①檜垣翁碑

①檜垣翁碑

上浮穴郡久万高原町東明神(県道207号線の付近)

②桧垣桜公園にある碑

②桧垣桜公園にある碑

上浮穴郡久万高原町東明神