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久万高原町

高野幸治(1785〜1873)

 天明5年~明治6年(1785~1873)畜産功労者。上浮穴郡久万町上野尻に生まれる。資性快活で頭脳明晰、公共心に富み商才にたけていたという。12歳の時、博労(現在の家畜商)白石新七について牛馬の良否の見方や売買の要領を習い、翌年13歳で独立営業を始めた。当時、牛は牛肉の需要も少なく、専ら農耕用として飼育され、運搬用としては馬が多く、その売買も農家の庭先取引で手数や冗費も多かったので氏は集合売買を計画し、秋祭りを定期日として馬市を開いたのが野尻市の始まりとなった。開設時の誠意あふれる世話方今適当な馬が求め易い等から非常に評判がよくて「幸治市」とも呼ばれたという。その後牛馬資源が増大するにつれて野尻市は繁昌し、特に年2回の野上げ大市(6月12日13日、10月30日31日)は県内はじめ高知、九州からも売買客が馳せ参じて日延べをする大賑わいを呈し、地域ぐるみの一大行事として関心を呼んでいたという。こうして氏は野尻家畜市場の開祖として尊敬されている。没後同じ野尻の人、高泉勝三郎が後をつぎ、上浮穴郡畜産組合も大正2年発足し、市場の拡充を機に大正13年6月15日上浮穴郡畜産組合、上浮穴郡牛馬商組会、野尻家畜市場後援会が建設発企者となって、氏の功績をたたえる頌徳碑を野尻家畜市場内の中央に位置して建立した。明治6年5月13日、88歳の生涯を閉じた。(『愛媛県史 人物』より)

【追記:写真解説】
写真② 
 市場開祖高野幸治氏頌徳碑の基盤。地元の方のお話によると、この石は牛の角・目・鼻、つまり牛の顔を表しているという。
写真④ 
 この通りは以前はもっと狭く、車1台が通れるくらいの幅しかなかった。また、通り沿いには旅館もあり、出店も数多く出てかなりの賑わいを見せていた。
写真⑤
 売買される牛の数が多い時には市場だけでは入りきらず、周辺の土地に杭を立てて牛を繋いでいたそうである。

①市場開祖高野幸治氏頌徳碑Ⅰ

①市場開祖高野幸治氏頌徳碑Ⅰ

上浮穴郡久万高原町上野尻51付近

②市場開祖高野幸治氏頌徳碑Ⅱ

②市場開祖高野幸治氏頌徳碑Ⅱ

上浮穴郡久万高原町上野尻51付近

③野尻の牛市場跡

③野尻の牛市場跡

上浮穴郡久万高原町上野尻51付近

④牛市場付近の通り

④牛市場付近の通り

上浮穴郡久万高原町上野尻51付近

⑤かつて牛を繋いでいた土地

⑤かつて牛を繋いでいた土地

上浮穴郡久万高原町上野尻51付近