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松前町

相原 賢(1821~1889)

 漢学者・教育者・戸長。文政4年8月15日伊予郡鶴吉村安井(現伊予市)に生まれた。幼名は鷹次郎、長じて和佐助、字は士斉草野山人または草恭野人と号した。幼時、両親を亡くしたが学問を好み、7歳、大洲藩士井上桂庵に素読を受け,、14歳、郡中の陶惟貞に学ぶこと3年、ついて道後義安寺の僧顕光、日下伯巌らに学び、後に鷲野南村の橙黄園塾に入り南村を生涯とするに至る。また、好学心強く、豊前小倉の和算の大家小松式部(鈍斎1806~1868)が遊歴して伊予に立ち寄ると直ちに行って和算、天文、暦学を学んだ。青年時代には、宗の孝宗の国子鑑主籍鄭耕老の勧学訓を板書して座右に置き、昼夜を分かたず読書研鑽に励んだ。『十三経』購入のため自己の良田3反歩を売却したのもこのころである。
 明治5年学制が頌布されると上三谷日進学校、上高柳墨水学校、神崎義方学校に四等教官として子弟の教育に尽粋した。愛郷心きわめて強く、戸長としても粉骨職務に精励した。
 生来資性純誠、辺幅を飾らず、名利を求めず、終生野に在って学問と教育に精進した。一時藩公より招聘のこともあったが固辞して受けなかった。明治22年『中庸校註』を著したが、同年9月14日自宅で没した。行年68歳。大正13年10月18日、門弟ら相寄り、北伊予小学校々庭に頌徳碑を建てた。直筆の遺墨は僅少、令息海春の代筆が多数のこされている。相原賢伝は、鷲野南村同門の松山龍稔寺僧田中道円の『艸野相原賢略伝』相原海春著『相原先生年譜』に詳しい。同書に学友河東静渓、先輩武知五友の追悼詩がある。『中庸校註』は在所不明。(『愛媛県史 人物』より)


①相原賢詩碑

①相原賢詩碑

伊予郡松前町鶴吉(鶴吉公民館敷地内)