データベース『えひめの記憶』
松前町
忽那栄左(1852~1914)
嘉永5年(1852)、北川原忽那菊太郎の長男として生まれた。7歳から9歳まで寺小屋に入ったので、学歴は2か年に過ぎぬが、生来の向学心と不屈の意志で刻苦勉励自己学習に努め独学よく学を修めた。生涯学習の魁、模範といえよう。
明治9年(1876)24歳の時、農会令が布告されると直ちに、「北川原農会」を結成、推されて会長に就任、各種講習会、研究会には進んで参加し、北川原に「農業試験地」を創設して米麦野菜類の品種改良に没頭、農業振興に挺進した。
増産の為、新田開拓、災害復興には特に力を入れ、明治17年(1884)未曾有の暴風雨・海嘯(かいしょう)による北川原・塩屋部落の災害甚大で復旧は絶望視されたが、明治37年(1904)不撓不屈よく復旧工事を完遂した。また、重信川河口北岸の開拓にも着手し漁業権の補償、その他の難関を克服して千数町歩の畑を開墾、西瓜、桃等の生産地に育成し数百年来だれも企てて及ばなかった難工事を完成せしめる等開拓農地造成に全力を傾注し農業振興に精励した。
明治35年(1902)以来、村会議員、区長、助役等を歴任、精励格勤その職務を遂行して篤く信望された。特に農事改良は耕地整理にありとしてその必要性を強調、率先して所有の田地5町歩を自己負担で決行し、北川原120町歩の耕地整理三か年計画を1か年で完遂する機運をつくり、また、岡田地区が農業模範村として称揚される原動力ともなった。
社会教育には特に力を注ぎ、他地区にさきがけて、「北川原農業補習学校」を開設、青年教育重視の嚆矢となった。
また、篤く神仏を信仰し、父菊太郎の病気平癒祈願のため三か年一日も欠かさず沖神社に日参した。
四国八十八か所巡拝は、3回に及んでいる。趣味として俳句を嗜み「里月」と号して大原其戒門「明栄社」の幹部同人であった。
年の坂 越して若やぐ こころ哉
(大原其戒古稀祝賀全国俳人賀章「おいまつ集」)
花粉吸ふ 蝶驚くや 落椿
(大原其戒「懐紙」)
麻の葉に かくれてわびし 一ツ家
(其戒選教明寺俳額ニ十番目)
大正3年(1914)12月努力の一生を閉じた。満62歳であった。
(松前町教育委員会が耕地整理記念碑側に建てた解説板より)