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内子町

四兵衛(1668~1747)

 四兵衛は当甲の年73になりぬる老農なるが、一村の民屋をはなれて廿町ばかり山上の一つ家に妻子8人暮しぬ。親を庄左衛門という。四兵衛8つの年のころ、親此の山の切り開きを願い初めてこの所に住み数十年を経て漸く年貢5斗ばかり出る程の地を持ちて葛・蕨の根などをほりて飢をしのぐ小百姓なり。(『予州大洲好人録』)

 四兵衛は、寛文8年(1668)百姓、庄左衛門の長男として左右瀬(現大久喜)に生まれた。
 14歳で父を亡くし戸主となり、里を離れて山奥でただ一人、開墾に励み、税金を免除されているにもかかわらず里人と同じく租税を納めることを理想として働き、ついに一町(約1ヘクタール)にも近い山田、山畑を開拓した。
 18歳で納税することと報恩貯蓄をするという志をたて、その後、結婚し、子供6人に恵まれ、志達成のため苦しい生活を続け、73歳で餓死に瀕して守った700文を大洲藩に献金した。
 「椋の実」を処世訓として修養に努め、円満なる人格と篤実なる精神を作り出して、79年の意義ある生涯を送った。
 四兵衛の善行は、『大洲好人録(寛政12年版、川田雄琴著)』に記載せられ、また『官刻孝義録(寛政年間版、徳川幕府編)』に奇特者として揚げられた。
 昭和16年(1941)四兵衛の邸趾及び開墾した山田、山畑や墓碑などを発見し、四兵衛の業績の大なることを知って「聖農四兵衛遺徳顕彰会」を発会し、『好人四兵衛伝』を発刊している。また、昭和20年(1945)9月20日、二百年祭法要及び頌徳碑除幕式を五十崎国民学校(現五十崎小学校)で執行している(『五十崎町沿革史』)。
 昭和52年(1977)四兵衛の墓が町の文化財(史跡)に指定された。(『改訂五十崎町誌』より)

①聖農四兵衛頌徳碑Ⅰ

①聖農四兵衛頌徳碑Ⅰ

喜多郡内子町五十崎(五十崎凧博物館付近)

②聖農四兵衛頌徳碑Ⅱ

②聖農四兵衛頌徳碑Ⅱ

喜多郡内子町五十崎(五十崎凧博物館付近)