データベース『えひめの記憶』
西予市
名本惣太郎(1876~1968)
名本茂市の長男として長谷に生まれた。幼い頃から頭の良さとすばしこい性格は他を抜きんでていた。
当時、国民の義務のひとつであった兵役を終えて帰郷すると、渓筋村役場に書記として入った。その後収入役や東宇和郡会議員など公職を歴任した。さらに、酒造・蚕糸・製材の諸会社、銀行の重役にも就任し、経済界でも名声を博した。
昭和12年、還暦を迎えていたが大志を抱いて満州(現在の中国東北地方)に渡り、吉林省祐吉炭鉱で敏腕を振って業績を挙げ、社長となった。そして、財を作ったが想いは郷土に寄せていた。
異郷にあって郷土の産業発展の基盤は道路にあると考えていた氏は、昭和17年には旭と梅ヶ造間に拡張に1万円を投じて竣工させている。また、16年から3年間にわたって専任の道路工夫を雇い、悪路の整備にも尽力した。
また、氏は敬神崇祖の念が深く、16年には天満神社基本金として2,000円を奉納した。さらに600円を投じて参道のコンクリート舗装工事をしている。
観音堂の新築ならびに長谷公会堂建築の話がでると、率先して2万6,000円を寄付し、他の地区に先んじて完成させた。なお、消防団をはじめ各団体に対する寄付は10数万円に及ぶなど、郷土に尽くした功績は数え切れない。
20年8月、終戦を満州で迎えた氏は、21年10月に渓筋に引き揚げた。そして、22年には村長となり、村の発展興隆に尽くした。
これら氏の功績に感謝した長谷地区の人々は、35年12月に公会堂前に氏の頌功碑を建立した(参考 名本惣太郎翁頌功碑文)。
(付記 昭和16・17年頃、師範学校卒教員の初任給45円)
(『野村町誌』より)