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西予市

山下定次郎

 大山神社の境内に、定次郎の頌徳碑が建っている。その碑文の中に「人となりや剛毅寛宏、父母につかえて至孝、朋友に交りて信あり、事に臨みて勇断果決、また最も公徳を尊び、義俠を重ず・・・」とあり。幕末のころ、征長のため吉田藩は、村々に軍費を課したところ、窮乏する俵津浦は出費が困難で、定次郎が相諮り村有地を公売してその費に当てる。このことで村内物議紛然となり、このことが藩庁に知られたが大衆に代わり首謀者として刑を受け、定次郎は三瓶の朝立へ所替えにあい、また3年の牢獄を受けた。これは村民に代わっての刑である。維新後は徴兵令の発布とともに国防のため国民皆兵を説き村民を慰撫する。また教育の重要性を村民に説き、自ら学務員となり学校創設に奔走する。
 明治12年郡区改正の際、県の諮問委員に任ぜられ大いに公事に貢献する。そのほか村人の私事にも斡旋調停など和解に骨を惜しまず世話を尽くし、村民からは厳父の如く敬せられ、慈母の如くに敬愛されたとある。しかしながら、これら公事私事に奔走する間に家財は散逸して家計は苦しくなり、村民は援助を申し出るが、かたくなに辞し、なお人のため尽くしたと伝えられる。
 明治45年6月7日、享年85歳、天寿を全うする。(『明浜町誌』より)

①山下定次郎君之碑

①山下定次郎君之碑

西予市明浜町俵津3-367-3(大山神社境内)