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宇和島市

大宮庫吉(1886~1972)

 明治19年4月1日北宇和郡竪新町(現宇和島市)で出生、父井上卯平、母マチ三男。4歳の時父死去、5歳にして母を失い、丸穂村の大宮家の養子となる。養父新吉養母セキ。 15歳で高等小学校卒業、16歳で村役場の書記に奉職、17歳の3月に藩の継志館塾を修了。23歳で日本酒精㈱に入社。翌年同社製造技術部に入り、25歳(明治43年)の時初めて「新式焼酎」の製造に成功した。27歳で結婚、28歳の時工場長に就任。大正5年4月(31歳)招かれて四方合名会社に入社し、新式焼酎の製造を開始。大正14年創立20年を機会に社名組織を変更し「宝酒造㈱」となり、庫吉は営業部長常務取締役に就任、時に40歳。
 彼は全国新式味淋焼酎の連盟理事などとなり、同類の会社を次々と合併し買収した。即ち松竹梅酒造㈱を傍系会社として経営し、日本酒造㈱を買収、次いで赤穂酒造㈱・岡村酒造㈱・大黒葡萄酒㈱・日本酒精㈱などを傘下におさめた。戦時中は大陸にも進出し、昭和20年12月60歳で宝酒造㈱取締役社長に就任した。
 昭和32年タカラビールを始めたが失敗し、昭和42年に京都工場はキリンビールに、木崎工場はサッポロビールに譲渡した。昭和46年1月脳血栓発病、翌47年1月21日死去、享年86歳、宝酒造㈱による社葬。彼は84歳の時(昭和44年11月)宇和島市初の「名誉市民」の称号を受けており、昭和36年11月には和霊神社境内に寿像が建立され、池田勇人が揮ごうしている。彼は一流の政治家事業家との交際が多く、三笠宮御夫妻が彼の私邸に来ておられる。「大宮浩堂翁を偲ぶ」の追悼録には愛知揆一・大平正芳・塩見俊二・塩崎潤・福田赳夫・星野直樹・前尾繁三郎・山際正道その他の名士が執筆している。
 彼の性格業績については追悼録に詳しい。「彼は学歴も門閥もなく文字通りの自成の人、自らの人格と才幹は自力で開発錬磨された人」と大平正芳は評している。「彼が思い切ってビールから手を引いたのは、ダンケルク撤退のチャーチル式だ」と塩崎潤は評している。彼は昭和28年に大阪の稲畑太郎から譲り受けた南禅寺山の名園「何有荘」で晩年を過した。(『愛媛県史 人物』より)

①大宮庫吉翁像

①大宮庫吉翁像

宇和島市和霊町(和霊公園内)