「坊っちゃん」と松山 2

道後温泉
「おれはこゝへ来てから、毎日住田の温泉へ行くことに極めて居る。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉丈は立派なものだ。」小説の「住田の温泉」は道後温泉であるのはいうまでもない。主人公は道後で団子を食っては生徒に騒がれ、温泉で赤く染まった手拭いをぶら下げて歩いては、赤手拭いと騒がれ、温泉の湯壷で泳いでは、「湯の中で泳ぐべからず」と貼り札をされる。今日でもこの木札が湯口の側に立ててある。また、三階には「坊っちやんの間」と松岡譲氏により名づけられた漱石を記念する一室もある。
昨年松山を訪れた観光客は五百万人、道後温泉の歴史は古く、神之湯の湯壷に刻まれた山部赤人の道後温泉を詠んだ長歌と短歌(万葉集巻三)が湯浴みする人々を遥かな古代へといざなってくれる。


明治27年4月10日完工 漱石着任の
1年前。現在の道後温泉(重要文化財)


漱石が旅装を解いた「きどや旅館」
小説では「山城屋」の現在



愚陀仏庵 漱石と子規が約50日間同居した。戦災で焼失し、復元された。(松山市一番町)



愚陀仏庵跡に建つ記念碑(松山市二番町)

愚陀仏庵
「坊っちやん」の主人公の下宿は、最初は、「いか銀」という骨董屋で、次は
「萩野のと云って老人夫婦ぎりで暮らして居る」家である。漱石は現在の県美
術館分館の近くにあった骨董商の家に下宿し、次に二番町の上野家の離れ座敷を借りて住んだ。これはほぼ小説と同じである。上野家の離れ座敷を漱石は、「愚陀仏庵」と名付けた。明治28年8月正岡子規は、日清戦争の従軍記者として大陸へ渡ったが、病を得て帰国、折から戦争も終結。療養かたがた帰省して、この愚陀仏庵の階下に転がり込んだ。漱石は2階を居間とし、50日
ばかり共に住んだ。子規の帰郷を知った門人たちがどっと集まり、俳句指導が行われ、2階の漱石も積極的に子規に師事し、創作の妙味を会得した。短期間であれ、こうした同居が漱石に10年後の「坊っちやん」執筆のきっかけを与え、また、「文豪夏目漱石」の出発点となったことは、漱石を語るとき見逃せない事実である。(本文は(東京法令出版)月刊国語教育1990年6月号『名作探訪「坊っちやん」と松山』(頼本富夫著)に一部加筆して転載した。)
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