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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)安産を願って

 ア 産婦の儀礼

 オビイワイ(帯祝い)…妊娠5か月目の最初の戌(いぬ)の日に帯祝いが行われる。戌の日を選ぶのは、犬の出産が軽いためであるとされ、帯を着けた時から忌みの期間に入るとか、胎児が社会的に承認されるための儀式であるとか説明される。腹帯を贈るのは、仲人、産婆、夫の伯母、妊婦の姉妹など地域によってさまざまである。
 出産…出産は出血を伴うためけがれとされ、アカフジョウ(赤不浄)あるいはアカビ(赤火)と呼ばれた。けがれを忌むため、産婦はウブヤ(産屋)と呼ばれる独立した小屋か、屋内でも特別な部屋で出産するのが習わしであった。しかも、けがれは火を通して他人に及ぶものと考えられたので、別火(べっか)といって、家族でも別の火を使って調理した。
 しかも、赤不浄のためほとんどの神は出産に近づかない。しかし、ウブガミ(産神)だけはけがれをいとわず出産に立ち会い、産婦と生まれた子を守る。山の神・ほうき神・かわや神・かまど神などが、出産を見守った時、産神と呼ばれるのである。この神々が寄らないと出産ができないという。 
 産気づくと産湯が沸かされる。産湯に酒を入れたり、薬草を入れたりする地域もあった。また、ウブメシ(産飯)が炊かれる。産飯は産神に供えられるもので、高盛り飯とし、えくぼができるようにと両側をへこませたりした。この産飯を産婦や産婆、手伝いの人など多くの人に食べてもらうほど生児(せいじ)(生まれたばかりの子)が丈夫に育つといわれる。
 実際に出産を手助けするのは、取り上げ婆さんや産婆(*1)であり、彼女らはトリアゲオヤ(取り上げ親)と呼ばれ、生児と仮の親子となり一生つき合うことになる。取り上げられた生児は、毎年お年玉として餅(もち)を取り上げ親に贈るとともに、その葬儀には必ず出席しなければならない地域もあった。
 ヒアケ…出産後も産婦はしばらくの間産屋で過ごす。忌みが明け産屋を出ることをヒアケという。忌みごもりの日数は地域によりさまざまである。

 イ 安産を願う食

 宇和島(うわじま)市日振島(ひぶりじま)は宇和島港の西方22kmの宇和海に位置する島である。日振島には島の南東から西北にかけて、順に喜路(きろ)・明海(あこ)・能登(のと)の3地区がある。かつては地区相互の交流があまり見られず、独自の習俗を形作っていた。生業は漁業で、特にいわし漁が中心であり、ほしか(イワシを干して作った肥料)やいりこに加工し販売していた。
 能登地区の**さん(大正15年生まれ)と**さん(昭和5年生まれ)に話を聞いた。
 戦前の生活を振り返って、**さんは、「昼のご飯が一番ご馳走(ちそう)でした。なぜかというと『船引網は夕まぐれ』といいまして、いわし網の漁は日が落ちる前から船を出します。日が落ちる前後に、魚の群れが日陰に寄ってきます。それを村君(むらぎみ)(漁労長)が山から見ていて船に指示を出し、漁が始まるのです。網は綿糸の網でしたから、帰ると集落から離れた所にある砂浜に網を広げて干す作業があります。一番ゆっくりできるのは昼だったのです。」また、「日振島は宇和島方面だけではなく、潮の流れやイワシの習性(夏が終わるとイワシは明浜(あけはま)沖へ回游(かいゆう)する。)の関係で東宇和(ひがしうわ)郡の明浜町とのつながりが強かったのです。このほか、網の染料の購入や養蚕業(ようさんぎょう)の手伝いに行くなどかなりの交流がありました。」と言う。
 帯祝いについて、**さんは、「岩田帯(妊婦が腹に巻く白布。腹帯)は仲人からもらったり、里の親からもらっていました。ていねいな家では、赤飯を炊いて小ダイやイサギ(イサキ)、ホゴ(カサゴ)など手近にとれる魚を尾頭付きで2匹、煮つけにしていました。尾頭付きというのは、頭からしっぽまでついた完全な姿の魚で縁起物でした。魚が手に入らない時は、6~7cmくらいのだしいりこを2匹付けていました。」と言う。
 帯祝いから出産までの間、妊婦には食に関する幾つかのタブーがあった。能登の例を挙げると、子どもにいぼができるからタコ、それに理由は分からないが油揚げなどの油もの、フカ(サメ)、スズキ、豆腐などは食べないことになっていた。また、食べものではないが、妊婦は刃物をまたいではいけないといわれていた。
 ちなみに、出産をひかえて、他地区にも妊婦の食に関するさまざまな注意事項が見られる(図表2-2-3参照)。
 また、能登で食べることを勧められたものについては、いりこがある。さらに、出産間近になった妊婦の食について、**さんは、「新造船の船おろしの時に餅まきをします。その時の餅があれば縁起はいいし力は付くし、これを食べるとお産が軽くなるといっていました。」と言う。さらに「チカラメシ(力飯)といってやや柔らかめの白いご飯を食べさせていました。出産は体力を消耗するからその対策です。戦前の能登の食といえば、サツマイモとたくあんが中心でした。それからすれば、白いご飯は体力がつくものだったんでしょう。」と言う。
 『節句と料理』によれば、「米は力」とする日本人の「信仰」があったと述べ、米の力は米を材料とした食品にまで及び、かゆ、酒、餅などはその最上位にあったと記している(④)。
 出産は産屋で行われる。**さんは、図表2-2-4を示しながら、「土間を上がると4畳半の落ち座(畳を敷いていない板の間の部屋)があります。落ち座の床下はそっくり芋つぼ(サツマイモを貯蔵する穴)でした。その奥に日が当たらない山際の3畳の間があって、これが産室(産屋)に当てられていました。お産の時には畳をあげて板の間にし、古いござやむしろの上にぼろ布団を敷いていました。」と言う。**さんは、「出産の手助けは、以前には取上げ婆さんがやっていました。戦後の昭和25年(1950年)ころに同じ日振島の明海(あこ)に産婆さんが来たので、出産の時には明海まで迎えに行っていました。」と話す。
 産後にも、食に関する配慮は続いた。**さんは、「青魚は食べたらいけませんでした。逆に米の粉を団子(だんご)にして味噌(みそ)汁に入れる団子汁は、お乳がよく出るようになるからとたびたび食べさせてもらいました。それに、味噌漬けにしたダイコンをよく食べさせられました。また、産後2、3日は血の道薬(婦人病の薬)として黒砂糖をなめながら中将湯(ちゅうじょうとう)を飲んでいました。」と言う。なお、他地区の産婦の食については図表2-2-5のような例が見られる。
 産婦がウブヤにいる間にサンミマイ(産見舞い)がある。**さんは、「親戚(しんせき)の人が、決まってお米を7合(約1.26ℓ、約1.05kg)、重箱に入れて持ってきていました。お米の上には尾頭付きのだしいりこを2匹つけるのが普通でしたが、それがない時はおひねりといって、紙をひねっただけのものを置いていました。これを産見舞いと呼んでいました。」と言う。
 産婦が産屋から出られるようになるヒアケの日は、産後7日目くらいであった。


*1:取り上げ婆さんと産婆 取り上げ婆さんはトラゲバアサン、コトリバア、ヘソバアなどと呼ばれ、むらの中で出産経験豊
  富な人や人柄の良い人が頼まれて出産を助けた。産後も取り上げ親として生児の将来に関わった。しかし産婆はこれと異な
  り、近代医学の知識を習得して助産婦としての開業免許を受けた女性を指している。

図表2-2-3 妊婦の食 

図表2-2-3 妊婦の食 

今回の聞き取り調査及び『愛媛県史 民俗下(③)』より作成。

図表2-2-4 産室のある家 

図表2-2-4 産室のある家 

**さん提供の資料より作成。

図表2-2-5 産婦の食

図表2-2-5 産婦の食

今回の聞き取り調査及び『愛媛県史 民俗下(③)』より作成。