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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(2)大盤振る舞いの厄落とし

 ここでは北宇和(きたうわ)郡津島(つしま)町の二つの地区を取り上げる。同町の西端由良(ゆら)半島の漁村である須下(すげ)地区と、同町の東端高知県境に位置する山村の御内(みうち)地区である。

 ア 手作りの厄落とし 

 津島町須下は、由良(ゆら)半島の中程にある旧下灘(しもなだ)村の一集落で、耕地は少なく漁業が主産業であった。戦前の多い時には網元が5軒あった。由良半島沖の漁場では巾着網(きんちゃくあみ)、昭和10年(1935年)ころまでは、須下湾にもハツ(*11)(マグロ)が回游(かいゆう)してきていたのではつ網、ほかにめじか漁も行われ好漁場であった。
 津島町須下の**さん(大正13年生まれ)、**さん(昭和7年生まれ)夫妻、津島町上畑地地区の**さん(昭和7年生まれ)、津島町曽根地区の**さん(昭和12年生まれ)に、地区をあげての厄落としについて聞いた。
 **さんは、「津島町須下で厄年といわれるのは、数え年で男の25歳と42歳、女の19歳と33歳です。須下では、厄を落とす行事のことを、ヤクオトシ(厄落とし)とかヤクヌケ(厄抜け)といいます。女の19歳・男の25歳の厄年には、オキャクすることはありません。内々(うちうち)で酒を出して厄抜けの祝いをし、あん入りの餅(後に鏡餅になった。)を近所に配り、鏡餅を神棚に供える。当人は、宇和島市の和霊神社や近くの氏神様にお参りするくらいでした。
 女の33歳と男の42歳は大厄で、この前後の年も厄年といわれます。しかし、ヤクイリ(厄入り)はそれぞれ33歳と42歳の旧暦2月(以下旧暦)で、同年の6月に厄抜けします。最も慎まねばならないのは、この約半年間です。厄年の2月1日にお祝いをし、これをニガツイリ(二月入り)といいます。厄入りにお祝いするのは、先にお祝いして疫病神を寄せ付けないためです。実際には正月の16日に注連縄(しめなわ)が取れると祝ってもいいことになっていましたから、前倒しして実施することが多かったです。女の33歳も同様で、男女とも同じように酒宴を開いていました。」と話す。
 以下、須下地区の男の42歳を例に記述する。
 **さんは、「祝宴の日が決まると、その3日前くらいからサカナドリ(魚どり)が始まります。知人や友人・親戚(しんせき)の人が、祝宴のための魚をとりに行く行事です。しけになった時も考えて早めに取り掛かっていました。寒いころですから、とった魚が傷むことはありません。例えば、ハマチなら頭を落として軒にでも吊(つ)っておけば十分2、3日は保(も)ちます。そのくらい経った方がおいしいくらいです。魚をとりに行くのは男の役、下ごしらえは女の役です。魚どりは、たて網(刺し網のこと)や釣り、夜間にやすで突く方法などでした。当時は魚も多くて、一度のたて網漁で数十匹のイセエビがとれたこともありました。
 準備が進むと、親戚の者が様子を見に来ます。魚どりの者も帰ってきます。下ごしらえをしている人もいます。自然に『まあ、一杯やろう。』という雰囲気になって小祝宴になります。厄抜け当日の祝宴は正午に始まり1日で終わります。翌日は残った酒や料理で手伝いに来てもらった人たちの宴会です。これをイタアライと呼んでいました。4、5日間も宴会状態になりますが、『そのくらいしないと厄は落ちまいが。』という気風でした。宴会の場所は自宅ですから、広い場所はとれませんので、手伝いの人は、納屋などを使って料理を作ったり食事をしていました。」と話す。
 当時の料理は、すべて手作りである。**さんは、「下ごしらえ、調理、盛りつけや参会者へのお土産作り、戦前にはどこでも当然のことでした。まあ、魚どりで食材まで自前で調達できるのは海岸部ならではのことです。刺身や魚の煮付けなどはもちろん、かまぼこなどのくずしもとってきた魚をすり身にして作りました。豆腐には海の潮水をにがりの代わりに入れて作り、巻きずしの海苔(のり)はイワノリを採ってきて作っていました。買うのは、そうめん、酒、米くらいでした。」と話す。すべてを手作りでやるだけに、一人の厄落としに多くの人たちの手助けが必要であった。
 **さんは、「厄落としの費用は当人が出します。参会者もお包みを持ってきますが、『25歳は親が祝う、42歳は腕で祝う、61歳は子が祝う』といわれていました。」と言う。
 手作りの料理は鉢盛りにされる。**さんは料理について、「正面に置かれるのがすずりぶた(*12)で、それにはタイの姿を残した活盛(いけも)り(活け作りのこと)が作られます。これが鉢盛料理の主役です。この鉢には、タイ・ハマチ・チヌなどの刺身が盛られます。たいめんの鉢(写真2-2-10参照)には、つゆをかけたそうめんの上にタイの煮つけを載せます。丸ずしの鉢もあります。丸ずしの具は刻んだネギです。ネギを入れたおからを酢・砂糖・しょうゆで味付けし、尾頭付きのイワシやアジを背開きにして、酢でしめたものに詰め込みます。魚が大きい時は2、3切れに切っていました。」と言う。**さんは、「この丸ずしが料理人の腕の見せ所で、これがおいしいと『今日の女衆(おなごし)には気の利いたのがおる。』といわれていました。」と話す。
 続けて奥さんの**さんは、「盛り合わせの鉢はひときわ大きい鉢で、すずりぶたと共に料理を引き立てます。下盛りにダイコン・こんにゃく・サトイモの煮ものを敷き、その上の中央に格別立派な1kgはあるイセエビ(飾り用の生きたエビで、この時は食べない。最後のイタアライの時に料理して食べる。客には別に湯がいたイセエビが一匹ずつ席に配られる。)と羊羹(ようかん)が置かれ、その周辺部にアワビ・サザエの煮つけが一盛り、溶き卵を入れて味付けした寒天と油揚げの煮しめが一盛り、卵焼き・かまぼこが一盛り、あげまき・にしきまきなどのくずしと豆腐の煮物が一盛り、サツマイモや魚の天ぷら・コンブの煮しめなどが盛りつけられました。」と話す。**さんは、「アワビも20cmくらいあるものを使い、サザエや下盛りは最後まで残っていました。」と言う。
 続けて**さんは、「ハマチ・タイ・チヌなどを使った刺身の鉢、フカ・イカやこんにゃくなどが載ったみがらしの鉢、ネギ・小イカ・イワシなどを酢味噌で和(あ)えたぬたの鉢、タコ・アマダイ・サワラ・海藻のトサカ・季節の野菜を酢に漬けた酢漬けの鉢などが並べられます。これら8種類の鉢に加えて、客の人数によって鉢が追加されます。鉢の数は奇数とされていました。ご飯ものは、俵の形に握った赤飯や巻きずしを小鉢に盛って宴席に出します。手伝いの人たちには、ちらしずしや炊き込みご飯を作っていました。」と話す。
 **さんは、「宴会も色々の宴会がありますが、『42(しじゅうに)歳の時のような料理だ。』といわれたら最大のほめ言葉でした。」と言う。
 祝宴以外の厄落とし行事について、**さんは、「本人が氏神様か宇和島の和霊神社に参詣(さんけい)したり、集落の全戸に餅を配っていました。餅はあん餅でしたが、やがて鏡餅になったと記憶しています。さらに、毎年サクラの時期にやってくる浜芝居の費用を負担していました。浜芝居は地区の費用でやっていたのですが、人気芝居で翌日も公演すると、二日目の費用は厄年の者が割勘で出す習慣でした。浜芝居には、三番叟(さんばそう)の演目があって、地域に良い縁起を持ち込んでくれるといっていたからです。興行師も心得ていて、『ここは二月入りの者がおるからやらせてくれるはずじゃ。』と居座るんです。浜芝居のほかに、二月入りの少し前に来る春神楽にも厄年の者が幾らか費用を出していました。」と話す。
 この習俗は隣接する集落同士でも微妙に異なる。津島町曽根(そね)地区の**さん(昭和12年生まれ)によると、同じ旧下灘(しもなだ)村にあっても「曲烏(まがらす)地区は質素で、須下や竹ヶ島(たけがしま)・曽根などの地区は派手な厄落としでした。」と言う。須下のイタアライが曽根ではアトギャクといわれ、厄入りも年賀と呼ばれるなど、表現も多少異なっている。

 イ ダンナシの厄落とし

 津島町御内(みうち)地区は、津島町の東端にある標高約260mに位置する山村で、篠山(ささやま)(標高1,056m)を下った遍路たちが県道津島宿毛線(4号)に合流するのもこの地区である。主産業は、稲作を中心とする農業と林業であった。津島町御内の厄落としについて、**さん(大正11年生まれ)、**さん(大正13年生まれ)、**さん(昭和4年生まれ)に話を聞いた。
 **さんは、戦前の林業を振り返って「昔の燃料は木炭が中心でしたから、木炭用の雑木が15年くらいの短い成育期間で売れるんです。10町、20町の山持ちは、毎年5反(約993m²)なり1町(約99a)なり切って売れば良かったのです。一般の人は稲作と麦作が中心で、農閑期に木材の切り出しや運搬、炭焼きをやっていました。」と回想する。
 御内の厄落としも大盤振る舞いの祝宴である。須下と異なる点に焦点を当てながら述べる。**さんは、「御内ではヤクバライ(厄払い)とか年祝いともいいます。厄年の年齢は、数え年で男の25歳・42歳・61歳、女の19歳・33歳です。女の19歳、男の25歳は特別なことはなく、親が赤飯でお祝いするくらいです。女33歳は実家から帯を贈り、客呼びはするが親戚(しんせき)内だけの小規模な会食でした。」と話す。
 **さんによると、「男42歳の厄年は、41歳の2月に厄入り、43歳の6月に厄抜けとされています。しかし、祝宴は42歳ナカヤクか、43歳アトヤクの2月中にしていました。6月に厄抜けするのに、2月中にお祝いをするのは、暑い時期にオキャクをすると料理も保(も)ちませんから昔はどんなオキャクでも寒い時期にしていました。加えて、早く厄抜けした方が良いという考え方があったからだと思います。」と話す。
 **さんによると、「御内は山村集落であり、魚などは購入しなければなりません。費用もかかりますから、山持ちや小作地を持つ豪農が大盤振る舞いの厄落としをしていたのです。いわばダンナシ(旦那衆)の厄落としでした。一般の人は、氏神様に参詣し身内でお祝いをするくらいでした。」と言う。その意味では、全員が祝宴を開いていた須下とは異なる。
 **さんは、「41歳の二月入りころから親戚(しんせき)・友人・地域の人が御祝儀をもって来始めます。そして42歳か43歳の2月、適当な日に3日間にわたる祝宴による厄払いをしていました。」と言う。須下のような魚どりはないから準備は1日である。**さんは、「魚は前もって頼んでおいて取りに行きました。かまぼこや魚などは岩松川河口にある岩松まで買い出しに行っていました。片道15km、途中は横吹(よこぶき)渓谷の急な坂を歩いていくから片道で3時間以上はかかります。準備は朝からするので、買い出しに行く者は暗いうちから出かけていました。準備は、地区の全戸から一人ずつ出て来て手伝っていました。」と話す。
 翌日から祝宴である。**さんは、「1日目はダンナシギャク(旦那衆客)といって地域の名士を呼びます。2日目は祝儀をもらった近所の人や親戚を呼びます。3日目はオナゴシギャク(女子衆客)といって手伝いに来た女性中心のお客で、この宴会のことをイタナガシといいます。」と話す。イタナガシは須下のイタアライと同じで、マナイタアライなどという地域もある。まな板を洗って片づけるという意味で、実際は手伝いの人たちの慰労の宴である。
 **さんは、「昔の宴会は全部自宅でしますから、家はオキャク用に作られていました。ふすまを外ずせば部屋が幾つか続くようになっていたので、70~80人近く座れたと思います。家の前にも酒樽(さかだる )を据えておいて、道を行く人みんなに酒を振る舞っていました。部屋をつなぎ合わせた会場ですから、席が整然と並ぶことはありませんでしたが、上座(かみざ)は決まっていて、その正面の鉢は活盛りと盛り合わせの鉢に決まっていました。」と言う。
 鉢盛りの料理は須下と大きくは変わらない。須下のたいめんが御内ではめんかけ、みがらしの鉢がゆあげという具合に呼び名は異なるが、中身はほとんど同じである。ただ、めんかけの作り方はやや異なる。**さんは、「めんかけは、タイが煮くずれしないように、わらで作った舟に入れて煮汁にいれます。タイをとりだした後の煮汁に湯がいたそうめんを入れて炊き、味付けをするのです。」と言う。盛り合わせの中では、凍こんにゃくの煮物が目を引く。**さんは、「凍(こおり)こんにゃくは、す(細かい無数の穴)が沢山入っていて、煮付けにすると味が良くしみこみおいしい食べ物でした。戦前には市販していました。」と言う。なお、ご飯はちらしずしが作られる。
 須下の**さんは、「須下は米もできませんし、日頃(ひごろ)はサツマイモと麦の生活でした。サツマイモは切り干しにして、かんころ飯で食べていました。それだけに“何か事”(何か特別な事)があると盛大にやっていたんです。」と話す。御内の**さんは、「御内は米を作っていましたので、日頃の主食は半麦飯といって麦と米が半々でした。魚は岩松(いわまつ)からイワシやサバ・アジをかごに担いで売りに来る人がいました。夕方魚を焼くいい臭いがすると『今日はイワシが食えるぞ。』と楽しみでした。」と言う。厄落としの食は大変なご馳走(ちそう)であった。


*11:ハツ クロマグロのこと。**さんによると出世魚で、ヨコ→ヨツ→ヒッサゲ→ハツ→オオバツ→シビと名を変えると
  いう。
*12:すずりぶた(硯蓋) すずり箱のふたの形をした料理を盛る漆塗りの器。大中小あるが、大きいもので縦70cm、横1m
  ほどある。

写真2-2-10 たいめん 

写真2-2-10 たいめん 

宇和島市住吉町。平成15年7月撮影