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わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~

◇上下水道の普及がもたらした、水の捨て方の変化

広松
 その柳川地方の人たちが、残念ながら今から40年ほど前、それまで一度も絶やしたことのなかった堀や川との付き合いを、放棄してしまいました。全国の例と同じように、急速に入ってきた欧米の文化を、錯覚して受け入れていったのです。
 川祭りや水神祭が、次第に廃れていきました。堀の底にたまった泥は、毎年欠かさず水田に客土して、肥料に使っていたのですが、それもだんだんと廃れていきました。化学肥料に飛びついていったわけです。
 昭和28年の西日本大水害では、あの平野が、全部海のようになってしまい、たくさんの方が亡くなられました。それを契機に、市街地周辺の農漁村部に上水道が建設されました。市街地は早くから上水道がありましたが、下流の農漁村部の人たちは皆、昭和30年にそれが出来上がるまでは、市街地を流れてきた川の水を、飲料水や用水に使っていたわけです。現在のように、生活排水を無意識のうちにダイレクトに川へ垂れ流すということも皆無でした。どこの地区でも、くらしで使って汚した水は、一度はちゃんと土に返していました。
 私たちの所では、土に返す装置のことを、タメとか、タンボとか呼んでいました。屋敷の一角に大きな素掘りの穴を掘って、そこに落としていたわけです。あのタメの中には、浄化者の代表格であります、ちょっと色の白い、太ったシマミミズがたくさん住み着いて、下水の汚れを食べてくれていたわけです。あのミミズをエサにして、よくフナ釣りをしたものです。昨日のことのように、鮮明によみがえってきます。
 こうして下水は、川や水路に届くころには、すっかりきれいになっているわけです。そんなふうに、捨て方に気を遣っており、100%自家処理をしておりました。これは何も柳川だけではありません。全国どこでもそうでした。
 ところが、上水道という素晴らしい生活文化を手に入れますと、使う水と捨てる水を、別々に考え、取り扱うようになってしまったのです。
 昭和30年の全国の上水道の普及率は34%ぐらい。昭和30年代に、水道の建設がどんどん進みますと、どこでも100%近く、ダイレクトに垂れ流すようになり、あっという間に、町の中や大きな集落の中の川が、汚くなってしまいました。たった2、3年でです。柳川の町では、私が市役所に入った昭和32年には、もう町の中の堀は皆ドブになっておりました。これは、全国的にも共通しています。
 都会では下水道がどんどん整備され、柳川でも「川が汚れたのは、下水道がないからだ。下水道の普及率は文化のバロメーターだ。」と、下水道の建設を宣伝しました。皆さんもお気付きだと思いますが、下水道が普及した所ほど、上水道から出てくる水がまずいんです。これまでのヨーロッパ型の下水道の考え方は、「汚れた水は、生活圏から遠く外に出しさえすればいい。」という一面があり、問題の解決にはなっておりません。今は見直されて、もっときれいに処理をしてから、また地域の川に返すという方向に、だんだんと向いてきておりますけれども。
 下水道がなかったころは、東京でも、大阪でも、柳川でも、川はきれいでした。「捨てた水は、また戻ってくる。」ということで、捨て方に気を遣っていたからこそ、きれいだったのです。ところが、上水道という素晴らしい文化を手に入れた途端に、捨て方に気を遣わなくなりました。「生活様式が変わったり、生活の水準が向上したから、川が汚れた。」と言われますが、これは真っ赤なウソで、捨て方に気を遣わなくなったから、汚れたわけです。

松井
 なるほど。「捨てた水は、また戻ってくる。」という考え方は、最近、再認識されつつあるようですが、それでも、捨て方に気を遣っている人は、そんなに多くありませんね。