データベース『えひめの記憶』
わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~
◇掘割の荒廃
広松
柳川では、昭和36年に川下り会社ができ、翌37年4月から、観光川下りが、20隻ほどの船で運行を開始しております。現在の川下り・内堀コースは、もうその時にはすでに、埋没しておりました。あっという間に汚れてしまったのです。昭和40年代になりますと、柳川の町の中には、もう川下りの船が入れなくなった。
これではどうしようもないということで、柳川市は昭和43年から3か年計画で、現存する城堀(幅20m、長さ10km)、小さい堀ではなく、あの大きくて広い城堀を大々的に浚渫(しゅんせつ)しました。いったんはきれいになったかに見えましたが、昭和49年、50年ころになりますと、また元のもくあみになってしまった。
私が生まれて育った蒲生の堀は、汚し始めたのは一緒でしたけれど、規模が大きかったからなかなか汚れない。そのころまではかなりきれいでしたので、私は、時間を作っては、自分が生まれて育った母なる堀の中で、魚を追いかけ回しておりました。その堀の汚れが目につくようになったのが、ちょうどそのころ(昭和49、50年)。魚はたくさん取れますけれど、取ってもまずくて食べる気がしません。堀から追い出された気持ちで、昭和50年の暮れに釣り舟を買って、今度は有明海に出て行くようになりました。
最初に申し上げましたように、有明海は泥の海ですから、普通は、沖合の比較的海水が澄んでいる所で、漁船の生け簀の栓を閉めて海水を一杯ため、港に帰ってきます。それから翌朝まで、釣った魚を自宅の生け簀に入れて、ブロアーでエアをふかすわけですが、通常はその泡が次々に消えていきます。ところが、ちょっと釣果が少なくて、港に近づいてから生け簀の栓を閉めた時には、生け簀でふかすブロアーの泡が、盛り上がって消えないわけです。今、大きな海までもが、私たちが出した汚れで、汚染が進行しているということなんです。
私にとって、堀と言えば母みたいなもの。その母の元から逃げだして、有明海に行きましたけれど、また今、その有明海からまでも追い出されようとしております。非常に残念です。
松井
これほどひどい状態だと、堀割の存在そのものが問われてきますが、市民の皆さんの取り組みは、どうだったんでしょうか。