データベース『えひめの記憶』
わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~
◇掘割の埋め立て計画が決定!「これは大変なことになる。」
広松
市民が、堀を放置し汚れに任せていたかと言うと、決してそうではありません。昭和39年ごろから、商店街の校区に環境衛生組合連合会が作られて、住民による活動が始まりました。
行政のほうでも、市の厚生課がバキューム車を購入してヘドロの除去をしたり、昭和43年からは、先程述べたように、城堀の浚渫も大々的にしました。大金をかけたものの、昭和40年代末には、再び川下りの船が入れなくなったというふうに、あの手この手でいろいろとやってきましたが、一向に成果が上がらないわけです。
それで、柳川市は昭和50年に環境課を作ります。その初代の環境課長が、「これまでみたいにそれぞれの課がばらばらにかかわっていたのでは、堀や川の再生はおぼつかない。管理体制を一元化して取り組むべきではないか。」ということで、市の三役、教育長、関係する各課長を集めて、総勢15、16人のメンバーで、水路関連課長会議を始め、1年半にわたって議論を重ねました。
会議での現状分析は、「昭和43年から城堀10kmを大々的に浚渫し、いったんきれいにはなったが、またたく間にだめになってしまった。よその町では、汚れてしまった中小水路はとっくの昔に埋め立てて、有効利用を図っている。しかし、柳川の城堀は、下流農漁村部の大事な農業用水の導水路であり、かつ、観光川下りのコースでもあるので、これだけは何としても死守しなければならない。城堀を温存していくためにも、市街地の堀や川は埋め立てて、下水道として整理すべきだ。」というものでした。結論として、「城堀10kmと、市街地の中の農地にある若干の堀とを残す。商店街などの4本の堀(計5,500m)は都市下水路にし、他の中小水路は皆埋め立てる。」という計画が決定され、昭和52年4月1日からスタートすることになったのです。
下水道の仕事は通常は土木サイドでやるのですが、過去の経緯などから、柳川市では、言い出しっぺの環境課にお鉢が回り、機構改革によって、環境課の中に都市下水路係ができたわけです。そして、私がその係長になれということでした。堀の中で生まれ育ち、役所では一貫して水道の仕事をやっていましたので、土地の生理をよく知っていました。堀を埋めたら、柳川はだめになる。一方で、堀は自分の母みたいなものなのですから、なかなか辞令を受ける気にはなれず、2週間ほど断り続けておりましたけれど、友人で先輩の人が、「新しい部署に行けば、新しい人生が開ける。君だったら、きっと切り開くことができるだろう。」と言ってくれたことに動かされて、辞令を受けました。
はじめに申し上げたように、もともと湿地帯である柳川にとって、堀がもっている①遊水池としての機能、②貯水池としての機能、③地盤沈下を防いでいる機能は、決して欠かすことができませんし、他に代替することもできないのです。堀を埋め立ててしまえば、元のぬかるみに戻ることが明らかです。
「これは、大変なことになる。」と、早速言って回りますけれども、だれも取り合ってくれません。すでに、建設省の補助事業採択も内定し、コンサルタント会社も決まって、県の下水道担当者も柳川市役所に来られており、対象地区の説明会も進んでいました。事業はすでに歩みだしていたわけです。時間だけが過ぎていくものですから、とうとう市長に直訴して計画を6か月間凍結していただき、その間に河川浄化計画案を作って、それが市議会の全員協議会で全会一致で承認されました。
松井
普通だったら、とても止めることができないと思ってあきらめてしまいそうなところですけれども。ただ、行政が河川浄化計画を作ったとしても、実際の浄化というのは、なかなか簡単には進まないと思うんですが、そのあたりは、どのように取り組んでいったんでしょうか。