データベース『えひめの記憶』
わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~
◇学問との出会い
豊田
豊田でございます。皆さん、よろしくお願いいたします。
はじめに、学問との出会いということで、自己紹介がわりに、研究を始めたきっかけなどについてお話をさせていただきます。
私、実は先日50歳になりましたが、こうして自分と学問との出会いを話さなければいけない年になったのかなということで、ある意味では非常にがっくりしているところです。一方では、こういう形で自分をもう一度見直す機会を与えてくださったことに深く感謝もしております。
私の場合、学問との出会い、研究を始めたきっかけと言っても、そう大したことはございません。私が生まれましたのは、香川県の観音寺(かんおんじ)というところです。海べりの小さな市で、今、人口は4万を割っているのではないかと思います。ただここは、江戸時代から続いてきたかなり古い在町(ざいまち)ということで、そういう意味では海と非常に関係が深いところです。
香川県というところは、農業が非常に盛んなのですが、農業のための用水が致命的に不足しております。そのため、我々の子供のころからため池が身の回りにもたくさんありまして、夏になりますと、毎年のように水争いというものが起こっていました。ただ、私自身は、そういうことはほとんど意識せずに、身の回りにあまり関心なく生きてきまして、やがて高校を卒業する段になり、さて、これからどうするかを考えたとき、結果的に横文字があまり好きではない、理数系があまり好きではないということで、必然的に文系に行かざるを得ないということになり、多少歴史が好きだったからということで、文学部史学科(国史)を選び、広島大学に入りました。
これは私がよく笑い話に言うのですが、私どもが大学受験した時には、まだ宇高連絡船で、高松から渡っていたのですが、高校の同級生が受験に行く時に、何を勘違いしたのか、「ああいよいよ中国大陸だ。」と言いまして、その時改めて、我々四国に育った者は、島に育ったんだなということを意識したような次第です。
今考えれば、何も知らずに、ただ単に高校の時に日本史が好きだった、ということで入った大学でした。ですから、行ってみますと、高校までの日本史と大学でやっている日本史は、全然違うので、ある意味ではカルチャーショックも感じました。
ところが、大学2年の時だと思いますが、ちょうど夏休みに、高校の時の恩師が、「東京から研究者が来る。ある庄屋の家の文書の史料整理をするが、よければ手伝いに来ないか。」と誘いの声をかけてくださいました。実はこれが、私にとって、本当の意味での研究との出会いだったと思います。この家は、佐伯(さえき)さんとおっしゃる香川県の大野原(おおのはら)町にある家でして、現在、この家の文書・記録は、全部高松市にあります香川県立瀬戸内海歴史民俗資料館というところに入っております。これが1630年代(寛永(かんえい)年間)から明治の初めまで、小さい村のものですが、全国に出してもそう恥ずかしくない、非常に長い間の、また非常に膨大な記録なのです。これを4日間ほど、缶詰になって分類・整理いたしました。
皆さん方も御存じかもしれませんが、江戸時代までの、文書・記録というのは、いわゆるお家流という字体で書かれておりまして、大変読みづらいのです。私も最初見たときは、これでも字かな、ミミズがのたくった跡じゃないかな、果たしてこんなものが読めるのかな、という、非常に大きなショックを感じました。
ですが、何日間か見ていくうちに、少しずつ読めるようになってきます。その時は、簡単な目録を作るのに、4人で4日かかったと思いますが、整理をして、それを大学へ帰りまして、大学の先生にお見せしましたら、それは1点、1点、ちゃんとした目録を作りなさいということで、御当主と相談をして、私がその後何回か通って、1点1点の目録を作り、それを元にして、卒業論文を書いたわけです。香川県(讃岐国)の近世村落に関して言えば、多少なりとも研究論文的なものとしては、比較的早い時期のものだったと思います。
文書類の中には、縦長や横長の帳面があったりするのですが、今、私たちが見ている帳面の裏に、いっぱい字が書いてあるのです。それがだいたい1660年代(寛文(かんぶん)年間)のものなのですが、それを見ていると、どうもこの裏の文字をつないでいくと、もう一つ帳面が復元できそうだと思いまして、御当主の了解をもらって、こよりで綴ってあるのを、全部バラして、もう1回裏返しにしてみました。すると、別の帳面が完全にもう1冊できるのです。裏と表とで、帳面が2冊入っているということで、たいへんな感激をしました。当時はまだ江戸時代の初めですので、紙そのものもそんなにたくさんできない時代で、1回使った帳面を、裏文書(うらもんじょ)と普通言うのですが、もう1回使い直しているわけです。そのことによって、一つの資料から2回、いろいろなことが分かってくるという体験をしました。
このときの経験が、私が江戸時代の歴史研究に、本格的に入っていくための非常に大きなきっかけだったと思います。
さらにまた、今日のこのセミナーとの関連で申しますと、私が海の歴史に関連を持ち始めたのは、昨年度の、この「愛媛学」の、今治でのセミナーの講師をされました渡辺則文(わたなべのりふみ)先生、今治の御出身で、広島大学の先生だったのですが、この先生との出会いだったと思います。
わたしが、大学3年生のときだったと思いますが、「渡辺先生が中心になられて、竹原(たけはら)市の市史の編纂(さん)をやっているから、手伝いに来ないか。」と、先輩から声をかけられました。時期はちょうど今ごろだったと思います。今ごろですから、大学の方は授業があるのですが、教室の授業を1週間完全に抜けまして、泊り込みでその竹原市史の編纂のお手伝いに行きました。この時は、だいたい夜中の3時ぐらいまで仕事をして、朝8時まで寝させてもらう以外は、あとは一日中、まさに缶詰状態で文書と向かい合っていました。しかし、このような経験を通じて、歴史の勉強ないしは文書を読むことによって、人々の心や苦しみが分かるんだということを、諸先生、諸先輩に教えていただくことができ、それによって、これはもう少し社会に出るのを延ばして、本格的に歴史を勉強してみようということになったわけです。
さて、この竹原市史の史料の中に、竹原市に忠海(ただのうみ)というところがありますが、その忠海の昔の萬(よろず)問屋、廻船問屋の記録がありました。これは客船帳(きゃくせんちょう)と言いまして、いわば問屋の取引先の名簿なのです。この取引先名簿、あとで詳しく御説明いたしますが、全国の廻船問屋や廻船との取引関係を書いてあるのですが、その整理を私にやれということになりました。竹原というところは、製塩の町でございまして、その塩を買い求めに、全国から人がやってくる。そして、そのような経済的な繁栄を背景にして、御存じのように、頼山陽(らいさんよう)とか頼春風(しゅんぷう)など、いわゆる頼一族や、さらにその影響を受けた、いろいろな文化人が出てきたわけです。
そういう産業、経済、文化などが、非常におもしろい展開をした地域の、まさに地域学を一緒になって勉強したということが、私に、言わば村の研究と町の研究、そして海の研究というものへと目を広げさせていき、それぞれの相互関連を考えさせていった、大きなきっかけになったと思います。
その後、大学院、助手の時代も含めると、結局、広島大学に11年おりました。助手をしておりました時には、先ほど申しました渡辺先生が中心になられて、瀬戸内海のいろいろな研究をやるということで、私もそれに参加させていただきました。たとえば、瀬戸内水軍の研究では、因島水軍、能島水軍、来島水軍の跡を訪ねるとか、あるいは、大三島の研究。また、塩の流通を求めて、内陸部の長野県であるとか、愛知県の調査にもカバン持ちで一緒に行きました。
今考えてみますと、私にとって、多少幸いしたのは、私が研究を始めたのが、1965年(昭和40年)ころですが、まだそのころには、江戸時代の村や町の景観や慣習が、私たちの身の回りに残っていたことでした。たとえば、最近、私どもが学生を教えるのに一番苦労するのは、町(ちょう)、反(たん)、畝(せ)、歩(ぶ)という江戸時代の面積単位を理解させることです。この町、反、畝というのが分からないのです。そこで、歩というのは多少分かるだろうと思って、歩というのは坪(つぼ)のことだよ、と言うのです。坪というのは、1坪、何坪というように今でも皆さん方家庭でも使っていると思って、先日も「1坪と言ったら、畳何枚かな。」と、ある女子学生に聞いたら、1枚ですと言うんです。尺貫(しゃっかん)法が使われなくなった現在では、若い人が歴史の勉強をするというのは、非常に大変だろうと思います。
その点、私の場合には父親が明治生まれで、古いことを身の回りで見せられていましたので、比較的スムーズに歴史の中に飛び込むことができましたし、また、江戸時代の歴史は、自分たちの直接の先祖の話、ないしは今の生活の基盤の研究という、かなり現代的な意識を持って、研究を始めることができたという幸運がありました。
広島に11年おりまして、その後、昭和49年に大分大学に移りました。
大分大学に行きまして、それまでやっておりました研究フィールドを、だいたい広島から香川をやっていたのですが、これを九州の大分に移しました。29歳の時だったと思います。それ以来現在まで、大分を研究フィールドとしてやってきましたが、大分では近世史の研究をしている人が非常に少ないため、私はこれだけやっておけばいいということがなかなかできません。したがって、今は近世史に関するありとあらゆることをやっております。零細企業だと、自認しています。
ただ、大分へ行って、一番私自身を変えたものは、いわゆる文献史学に加えて、足で書く歴史、そういうものを実感したということでした。広島にいる時も、研究を始めた当時から、歴史は手で書くんじゃないんだ、足で書くんだということを、よく言われました。それは御説明するまでもありませんが、歴史研究には、現地踏査、フィールドワークが、必要不可欠なのだということなのですが、私のように文献から入った者は、概して、文書・記録をうのみにして、文書・記録になければ、全部うそだという偏見を多少は持っているわけです。大分で、そうではない、足で書く歴史というものを、本当に体験できました。