データベース『えひめの記憶』
わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~
◇海が育てたくらしの文化
豊田
このテーマの時間がちょっとなくなりましたが、「海が育てたくらしの文化」ということで、詳細については、後でお話ししていただけるものと思いますので、私は一般的なことを一言だけ申し上げます。
海とは何かということなのですが、やはり海というのは、人や物や文化が移動していく回廊だったと思います。そして海というのは実に多くの恵みを与えています。江戸時代の日本の人口は一般的に約3,000万人と言われています。実は人口調査をしているわけではないので、よく分からないのですが、いわゆる石高何万石、何十万石という石高が、日本全体で約3,000万石なのです。1石がだいたい1人を扶養する石高だというふうに言いますので、3,000万石で、人口が3,000万人となるわけです。
ところが、これは豊後の例で申し訳ないのですが、豊後の佐伯藩は、2万石です。「佐伯の殿様は浦でもつ」と、よく言うのですが、佐伯藩は領知高1石あたりの人数が3.38人、3人以上なのです。ですから地方(じかた)に比べまして、約3倍の人口育成力を持っているということになります。これは農業を基本にし、浦方(うらかた)の生産力も米の高で換算するから、そういうことが起こるのです。結局、浦方というものは、いわゆる農業基準からしますと、それ以上の非常に大きな経済力を持っているわけです。
江戸時代の殿様はどの殿様も、米を作れ、米を作れと言うのです。田んぼを作れ、田んぼを作れと言うわけです。佐伯藩の殿様は、毛利と言いますが、毛利の殿様も、最初は、一生懸命山林を切って、田や畑にしなさいということを申します。ところが約10年たちまして、軌道修正をします。山焼きを禁止するのです。その時の言葉が、私は非常に好きなのですが、「山繁らず候らえば、鰯寄り申さず候。」というのです。昨日、今日と三瓶町内を見せていただきましたが、非常にきれいなウバメガシがありました。あれが全部魚付き保安林という形で保護されている。イワシというのは、陸地が光ると近寄ってこないそうです。それで、山が茂らないと、イワシが浦に寄ってこない。だから、山焼きを禁止する。いわば政策転換をさせられるわけです。
海というのは、本当にいい意味で開放的です。ですから、他地域、他国の人との交流も、浦方というのは、皆が他国から来たという意識がありますから、非常に開放的で交流的です。海はそういう特性というものを持っていると思います。豊後の例で申しますと、江戸時代のはじめの漁業は、実は紀州漁民によってリードされます。紀州から漁民が入って来て、紀州の網が豊後の沿岸漁業を支配しますが、豊後漁民も次第にその技法をまねして、それぞれ自立をしていくわけです。このように、海は、いろいろな物、文化の伝播、人の移動、ないしは物の移動というものを行っています。そういう廊下というのが、海だろうと思いますし、先ほど申しましたように、特にこの伊予と豊後、特に豊後でも南部とこの宇和の海というのは、実は二つの地域というよりも、統一して合わせた形で一つの地域として形成されてきたというふうに私は考えております。