データベース『えひめの記憶』
わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~
◇地元の文化をいかに学ぶか
豊田
先ほど、私が大分に行きまして、歩いて歴史を書く、つまり、現地踏査の重要性ということを感じたということを申しましたが、それに関しまして、一つの例をお話させていただきます。
私は、大分銀行の研究所が作っている『大分の経済と経営』という雑誌に、昨年の4月から毎月「身の回りに歴史を見る」というタイトルで、大分の近世史について書いております。その副題が、「交流、融合、独自性」です。要するに、大分の歴史を、身の回りの素材を使いながら、他地域との交流の中で生まれてきた大分の独自性として考えてみようじゃないかという趣旨でございます。これまで書きましたテーマをいくつか御紹介申し上げます。
大分の歴史を貫くものとして、たとえば、「小藩分立が残したもの」があります。これは、大分も、愛媛と同じように藩がたくさんありまして、領域が非常に入り組んでおりますが、それが具体的にどんなところにあるか、ということであります。一例を申しますと、私の今住んでおります家のすぐ近くの神社に奉納されている灯篭(ろう)に、大分市内ですが、「延岡(のべおか)家中、松崎某」という名前の灯篭があるのです。その神社そのものは延岡藩領であって、延岡藩の役人が、大分市内に役所があって、そこにいたというのは、歴史では分かっているのですが、それが、具体的に身の回りをみると、そういう灯篭によって、ちゃんと実証されるわけです。また、大分県には境石、「これより東、臼杵領」とか、「これより東、延岡領」とか、そういう境石が数本残っております。あるいは、一つの村が岡藩領と、幕府領に分かれたために、お寺が二つに分けられたりもしています。そうすると山号寺号が全部同じお寺が、すぐ横に二つできるのです。ですから、そういう形で小藩分立が残したもの、というようなことを書いております。
その他、簡単に申しますと、「城と城下町」、「村を歩く」などです。これは水利施設のため池や水路について述べています。それから、「昔の道を歩く」。これは言わば、人の歩いた道、荷車の道、そして現在の自動車の道という形で、道の歴史をたどっています。「歴史の道調査」というのを5年ほどやりましたので、その経験から、具体的な今の道から、どのようにして昔の道をたどることができるかというようなことを、取り上げたりしています。
ほかに、「百姓一揆のあとを訪ねて」、「お殿様の墓を見る」ということもテーマとなっています。これも殿様、ないしは奥方の墓だと言われているものが、実は奥方ではなくて、国元の奥方の墓だったとか。もっとも、これは当たり前の話なのですが……。大分の地域性ということで申しますと、キリシタンの遺跡、温泉とその歴史とかという形で、現在まで、21回書いております。
これを毎月書いておりまして、墓、それから記念碑、文書、絵図、遺跡、遺物等々を見ていきますと、私がかつて調査したものなのですが、改めて、私自身の非常にいい勉強になっております。私たちの身の回りを少し注意してみると、いろいろな歴史の素材が転がっているのです。それが、言わばその地域の歴史というものを、非常に如実に物語っている。私は、皆さん方にも、地域を、そういう視点、いわゆる歴史の視点から見直していただきたいというふうに思います。
よく言われることですが、歴史には中央史があって、地方史がある。しかし、これはおそらく間違いだろうと思います。中央史というのは全くないとは言いませんが、日本の歴史となりますと、やはり地域の歴史の積み重ねだろうと思います。地域といいましても、いろいろなとらえ方ができるわけで、もちろん、「愛媛学」もそうでしょうが、愛媛県、伊予国というとらえ方もあるでしょうし、それぞれ、東予、中予、島しょ部、ないしは南予というとらえ方もあるでしょう。もっと言ってしまえば、宇和島というとらえ方もあるでしょうし、吉田というとらえ方もあるでしょう。さらに言えば、三瓶というものもあるし、三瓶の中でも二及なら二及というとらえ方もあるだろうと思います。そういうものの集積の中で、一つの地域、ないしは一つの国の歴史というものができていくということだと思います。
ただその際に、やはり気を付けておいていただきたいことは、地域のまとまりということと、その重なりということです。それからもう一つ、非常にこれは大事なことですが、その地域外とのつながりをどのように見ていくのか、ということです。これを意識しないでやってしまうと、我田引水と言いますか、ただ単におらが国さの自慢の話になってしまうわけです。ですから、常に外との関連を意識しながら、ないしはその地域をいろいろな視角からとらえ直していくということで考えてみることが必要だと思うのです。
たとえば、道なども、江戸時代の正規の道は何かと言うと、城下と城下をつなぐ道なのです。ところが、人々は、その官道のみで生きているわけではないのです。村と村をつなぐ道が、いわば人々のくらしです。歴史の道の調査をやりました時には、現在通っている道の横に、昔の道が残っている時はいいのですが、全く道が途絶えているところがあるのです。中には、もう道が全くなくて、そこらを上がって行きますと、トランシーバーを持ったおじさんが鉄砲を持っているのです。今から人が行くから気を付けろといわれて、ちょっと肝を冷しながら登っていったこともありました。しかし、実際には、そういう所のほうが、かつての道の残り具合はいいのです。もう廃道になってしまいましたから、昔の道が残るわけです。
そういう道を歩いていくことによって、城下と城下を結ぶ道、ないしは枝の道というものから、人や物の交流などの様子を読み取ることができます。たとえば、大分県の臼杵と津久見(つくみ)を結ぶ道があるのですが、この道は、途中に津久見峠という峠があって、幕府の巡見使(じゅんけんし)が入って来たら、その峠から臼杵の城下が丸見えだということで、城下が見えないように道をずらすわけです。幕府に全部手のうちをさらけだすと困るというので、道を替えるのです。それが、今はちょうど堀切となって残っておりますが、実際に道を歩いてみると、地域というものがどう変わっていったのかということが自分の目で確かめられて、私自身、たいへんいい勉強になりました。
最後に、この次との関連で申しますと、地域の歴史を学ぶということは、将来を展望するということになるのだろうと思います。
私は地域を知ること、それから地域に学ぶこと。これが地域の将来を考えるのに非常に大きな意味を持つと思います。最近、第二国土軸ということが、さかんに言われています。これはトンネルになるのか、橋になるのか、わかりませんが、今後の新しい豊予関係というものが、この第二国土軸構想の中にはあると思います。
皆さん方も御存じかと思いますが、最近、西瀬戸文化交流という形で、広島、山口、愛媛、高知、宮崎、大分、福岡で、毎年文化交流シンポジウムをやったり、高校野球の交流試合をやったり、それから俳句とか、そういう交流を盛んに行っています。
今まで、障害と考えていた豊後水道なり瀬戸内というものを、これを中心にして、地図を書き直してみると、新しい発見があり、非常に面白いのです。たとえば、先ほど申しました姫島を中心に図を描くと、同じ同心円で県庁あたりが結び付きます。そういう新しい交流の時代が、おそらく第二国土軸構想の中にはあるのではないかと思います。
今日、新しい地域づくりが考えられている中で、もう一度、かつての地域を見直そうということがよく言われています。いわば、共に学ぶ、そして共に楽しむという姿勢で、地域を見直すことが、おそらく新しい地域の再建になるでしょうし、逆に、先ほどいくつか例を申し上げましたが、豊後と伊予との交流や、伊予と安芸との交流の歴史を見ることで、今後の隔地間交易・交流というものが見えてくるのではないかと思います。また、一つの地域、例えば、三瓶なら三瓶というところを宇和町との交流とか、明浜町との交流、あるいは、松山との問題とか、大阪との関係という形でとらえるというように、いろいろな視点やいろいろな方法で、交流のきずなが読みとれるのではないかというふうに思っております。
菊池
どうもありがとうございました。
もう少し時間があれば、さらに深いお話をお聞かせいただけたのではないかと思いますが、先生には、お急がせをしまして、失礼しました。私のまとめとして、少しだけお話しさせていただきたいと思います。
先ほど、道のお話が出まして思い出したのですが、津布理から宇和へ抜ける道。これは、昔は三瓶の方は牛を使って荷物を運ぶ、宇和の方は馬を使って、お米、いわゆる年貢米を運ぶ。そういう過去の道があって、そこに牛馬地蔵さんとか、牛や馬を祭ったお地蔵さんが立てられています。この牛や馬を祭ったお地蔵さんの、地蔵盆と言いますか、念仏行事が、毎年3月の24日に、明治時代まで行われていたそうです。今はもうすたれてしまったと聞いておりますが、三瓶の人の優しさというものが、牛や馬を祭るという行為につながってきていると思います。
やがて、三瓶トンネルが完成いたします。大正6年(1917年)のことです。これは愛媛県で最初のトンネルですから、三瓶には、トンネルの歴史で言えば、愛媛県で最初のトンネルがあるということになります。四国で一番の大工事で、6万円の金をかけて、大正6年の12月にレンガづくりの三瓶トンネルができたわけです。
私はあのトンネルが大変好きで、時々行くのですが、伊豆の天城(あまぎ)峠を思い出すような、峠のトンネルです。現在は、新しいトンネルができたため、すたれていますが、もう一度、昔の道を掘り起こす、というようなことを考えてみてはどうだろうかと、思ったりするわけです。たとえば、坂本龍馬の通った道はこっちだとか、いや、こっちだとか言って、むらおこしに龍馬の歩いた道、脱藩の道が取り上げられたりしていますが、道一つにしても、いろいろなことが考えられるように思うわけです。
内を深く学ぶ。我田引水にならないように、外の地域とのつながりの中で、三瓶の姿をもう一度深く見直していく。その中から、新しい目、新しい視点を持った、新しい目のつけどころを持った歴史が始まる。それが新しい町の創造につながると思うわけです。
先生のお話の中に、「歴史は足で書く」というようなことがありましたが、これもやはり自分の足で歩いてみて書く。自分の地域をもう一度足で回ってみることが大切ということだと思います。
たとえば先ほど、油屋さんだとか、小松屋さんでしたか、いろんな屋号が出てきましたが、ああいう屋号も、やがて忘れられていくと思います。神社の玉垣などに、寄付をした人の屋号がよく彫ってありますが、三瓶の屋号がどれぐらいあったのか、そういう屋号を調べるだけでも、一つの勉強になるんじゃないかと思うわけです。
お話ししたいことはたくさんありますけれども、ちょうど時間になりましたので、これで前半を終わります。後半は地元の4人の方に御発表をいただきますので、御期待していただきたいと思います。それでは以上で、前半の対談講演を終わります。