データベース『えひめの記憶』
わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~
◇古老の話
ただいま御紹介いただきました井上でございます。
大正の末期から昭和の前半、船で大阪に行き来されていた古老によりますと、明治の半ばに、帆船から機帆船に変わってきて、大阪航路に従事したけれども、主として三瓶の製材された材木を大阪へ運送していたということでございます。
その当時の船の大きさは5、60トンで、焼玉エンジンの5、60馬力ということで、豊後水道を越えるに当たっても、潮に逆らっては、船は一歩も前進しない。1時間走っても後戻りをしていたということもあったそうです。それでいくら気がせいても、潮の加減を見て、豊後水道を越える際には、満ち潮に乗って渡っていったと話されております。三崎半島のことを、お鼻と呼んでいますが、このお鼻を越えるにあたっては、あの塩成沖まで行くと、まず焼ちゅうを1杯飲んで、前はちまきで真剣に舵(かじ)を握ったものだと。そしてお鼻を越えて、瀬戸内海側へ回ると、やれやれということで荷を下ろした(ほっとした)と、このようなことを話されておりました。今治沖に、広島県になるわけですが、木江(きのえ)という港がありますが、西宇和を含む南予から航海する船は、必ずここで休息を取って、大阪に上ったそうです。その当時、この焼玉エンジンの5、60トンの船で大阪まで、途中休息を取る関係もあって、3日間の航海であったということでした。下りは、主として雑貨を積んで帰ったとのことで、その行き先が別府になったり、宮崎になったり、県内は今治から宇和島の間、どこに運ぶか、それは分からなかったそうです。
なお、上りには、先刻お話がありました干鰯(ほしか)を積んで行くと、非常に高値に売れたと、このようなことも聞いております。