データベース『えひめの記憶』
わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~
◇江戸時代の三瓶
江戸時代の三瓶、あるいは宇和海一帯についてみてみますと、まず、慶長(けいちょう)15年(1610年)、時の板島(現在の宇和島)城主、富田信高(とみたのぶたか)によって、三崎半島のほぼ中ほどにあたる塩成(しおなし)に運河を作るため、掘り切り工事が着工されております。くわともっこによる作業の時代に、膨大な人夫、莫大な費用を投入して、工事に着手したということは、その当時の豊後水道が、いかに交通の要路であったか、さらには、いかに航海の難所であったか、ということを物語っていると思います。
明暦(めいれき)3年(1657年)、初代宇和島藩主秀宗の五男宗純(むねずみ)に、吉田3万石が与えられ、三瓶では、下泊村、蔵貫(くらぬき)村、津布理村、影之平(かげのひら)村の4村が宇和島藩、他の10村は、ことごとく吉田藩の所領になりました。
続いて、寛文(かんぶん)7年(1667年)、3代将軍家光のころ、幕府の命を受けて、巡見使が一行36名、宇和島藩と吉田藩の行政調査のために、この三瓶の浦々に入り、田畑の面積や米、大豆の出来高、年貢の状況、牛馬の数、海岸の船の数から漁業の状況、港の広さまで、細かな調査を行っております。
この時の調査の資料が、手元にありますので、ちょっと読み上げてみたいと思います。
周木浦は家が18軒で、船の数は7隻。この中に網船が4隻。ここでは加子(かこ)となっておりますが、要するに、水夫ないしは船乗りということで15人、港あり。そして、この港は何の風にも良し、港口に島二つあり。そして、この港の中には100石以上の船は10隻かかることができる。言い換えれば、10隻つなぐことができるということです。
長早は、家は25軒、片浜、港はない。二及については、41軒で船は26隻、乗組員は78名。港あり。ここは何の風にも良し。あとは、家の数だけ読み上げてみたいと思います。垣生(はぶ)は19軒、朝立(あさだつ)は43軒、安土は25軒、荒網代(あらじろ)は6軒、有太刀(あらたち)は8軒、蔵貫浦26軒、皆江26軒、下泊の場合は5軒と、加室浦(かむろうら)、この当時は神子之浦(みこのうら)と下泊が別れております。それで両方合わせて19軒。三瓶町全部を合計すると、家の数は256軒、船の数は111隻となります。この中に網船は39隻、そして船乗りは241人。
安土の場合は、この船10隻の中に、50石船が1隻と、60石船が1隻あった。これは五枚帆の船で、運送用、主として米回りということになっております。この船はすでに、大阪航路等に従事いたしております。
この資料によりますと、家の数と乗組員とが、ほぼ同数となっておりますが、これは、この時代、三瓶がいかに海とのかかわりが深かったか、を物語るものと思われます。特に、二及が、この当時、他の浦々と比較して、船員、船乗りの数が多いということは、それだけ漁業が盛んであったということを裏付けているものと思います。
この時期の漁業についてですが、この時代の漁業は、三瓶の場合、イワシ漁に重点が置かれております。これが、すごく高値に売れるので、庄屋自らが網元をつとめて、この船乗りは乗り子として乗り組んだ。当時すでに、事業配分があり、網元五分、乗り子、おおごし(網子)とも言いますが、これが五分の利益配分が、行われておりました。
その他の漁業については、一応制限をされておりましたが、メジカ網、ボラ網、コノシロ網、キビナゴ網、カマス網からハマチ網、マグロ網までありました。マグロ網が、この当時あったということは、三瓶湾にも、大きいマグロが入って来ていたと想像をいたします。
当時の生魚の販路は、主として近回りですが、宇和が非常にいい販売先であったとされております。生魚の商いについては、1番漁が沖から帰って来るのは午前2時から3時とされていますが、宇和へは朝商いということで、魚の仕分けをして、だいたい16貫から20貫(1貫=3.75kg)の魚を魚かごに入れて、これを天秤(てんびん)にかついで、極山根笹(ごくやまねざさ)峠を越えて、3里(12km)の道を3時間あまりで通ったといわれています。平(なる)と下りは小走りであったそうで、集団で掛け声よく通っていたということです。帰りの荷は、行きの荷を上回ることもあったようで、米をかなり持って帰っているようです。この交換によって、漁師は、米は耕作していなかったけれども、折々の飯米には不自由することはなかったわけです。
次に、当時のくらし向きについて、少し触れたいと思います。
この時代には、田畑は地力によって、4段階に分けられております。上田、中田、下田、下の下田と。当時、1反歩(10a)当たり、米は、上田で3俵3斗作られている。下田は2俵3斗、下の下田になりますと、見計らいと、なかなか大まかな感じで記されております。現在は1反歩あたり、8俵ないし9俵作られておりますから、だいたい現在の3分の1ぐらいしか収穫がなかったということになるわけです。この時代は肥料も農薬もない、さらに、造成されたばかりの田んぼは水持ちが悪い、いわゆる、水がかりが悪いというようなことで、反当たり3俵しか作られておりません。
当時、百姓、漁師は、家を建てる場合、田畑を敷地にすることを禁じられておりました。ちょうど田畑の造成の最中であったからだと思いますが、家を建てる場合は、作物の作れない所に建てよ。おごらず、不相応の家を建てるべからず。垣根用の植木は一切禁止する。家の前に木を植えることを禁止されております。
また、家は20坪(66m²)を越えるべからず。天井は張ってはいけない。屋根は茅(かや)ぶきであること。部屋数は一部屋か二部屋であること。畳は敷かず、むしろ敷きであること。土間は広くても良し。これは雨の日、夜なべ作業に良し、ということで、これだけは広くとってもよいとされております。また、塀や門は庄屋のみに許可されており、百姓や町人は塀や門を作ることは禁止されております。娯楽としては、村芝居は年に一度であること。盆踊りは一晩であることなど、かなり厳しい通達が出ております。
また、この当時、村には村柄の評価ということで、その村の貧富の状況によって、差がつけられております。この評価は、家は質素であることとしながらも、修理がよくできているかどうか、鎮守(ちんじゅ)の森の手入れがよくできているかどうか、鎮守の祭礼が定期的にできているかどうか、年貢米が完全に納められているかどうか。このようなことが村柄の評価で、上・中・下、下の下と決められておりました。
寛政(かんせい)13年(1801年)、三瓶では、広島県から船大工の棟梁(とうりょう)を招いて、大型船の建造に意欲的に取り組んでおります。その関係でしょうか、幕末の資料によりますと、安土浦には、五枚帆以上の運送船が15隻、それに、二及浦、蔵貫浦、皆江浦等を含めると、幕末には30隻の輸送船が活躍をしていたということになります。それから四枚帆以下、50石以下の、いわゆる小型船は、251隻所有されています。この小型船は主として近回り、宇和島、吉田城下から、三崎。さらに、浦から浦への運行に携わっていたようですが、こうした船によって、三瓶の港は、「白帆で賑わった」と、このように記されております。
江戸時代には、船の番所(これは取り締り番所ですが、二及の人たちは御番所とも呼んでおります。)この船番所が、西宇和郡には、宇和島藩は三机(みつくえ)(現瀬戸町)、吉田藩は二及に置かれておりました。そのため、この三瓶の浦々を行き来する、荷を満載した船は、二及の番所に立ち寄って、ここで積み荷と通行人の税金を払って、金毘羅さん参りのお客もかなり多かったようですが、それから三崎半島を越えたというようなことです。大阪までの航海日数が、その当時、優秀船でも20日から40日かかったといいますから、まさに風まかせ、帆まかせであったようです。
当時の積み荷は主に薪(まき)でした。松割り木が一番多いようですが、クヌギ割り木、バベ(ウバメガシ)割り木。海産物としては、先ほどありました干鰯、ヒジキ。それから木炭、それにハゼや生臘(ろう)。さらに米です。米は、宇和島伊達藩初代秀宗の折りに、宇和から馬でこの津布理に運ばれた米の量は、3千石ですから、俵数になおして、7千500俵、これだけの米が、宇和から馬で津布理まで運ばれております。それから大豆は400石ですから、これは1,000俵です。これが安土の港から主に大阪に運ばれております。