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わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~

◇保内まちなみクラブの誕生

 そうした時に、保内に住み始めた私が、自分の住み始めた町をよく見たら、保内はなかなかすごいと、個人的見解でそう思った。しかし自信はない。私個人がいいと思っているだけであった。それからいろんな目の肥えた方、大学の先生、あるいはそういうことに詳しく全国を歩いている街並みウォッチャーとかを連れて来ては、写真も見せたりして、そういう中でやはりすごいぞということで、私としては自信を持てた。しかし、一人では何もできないので複数で、たまたま呼応してくれる有志が何人かいて、それで保内まちなみクラブというのを作った。当初は、川之石の景観を考える会という、ちょっと固めの名前であったが、若い人にもアピールしようということで、現在の名前になった。
 保内はいろんな性格があるが、まず江戸末期から明治にかけて栄えた町である。その栄えた産業構造の主だった部分は、まず第一に海運である。保内町の雨井(あまい)という地区が海運の基地で、瀬戸の船乗りで雨井を知らない者は、もぐりだというぐらいの大変な海運の基地であった。それから木蠟(もくろう)。実は内子の木蠟の一番いい製品などは、保内町から出て行っている。明治に入ると、明治10年代に、四国でも最初、全国レベルでもとても早い時期に、宇和紡績という紡績工場ができる。この時に電灯もともり、四国で最初に電灯のともった町ということになった。愛媛県で最初の本格的銀行として、第29国立銀行というのが設置され、これが現在の伊予銀行発祥の地ともなる。四国の文明開化は保内から始まったんじゃないかと。おおげさに言えばそういう町であった。それから、大峯銅山というのがあり、これは最盛期には住友別子銅山に次いで、出鉱量の多い銅山であった。
 そうしたことが、しかし調べていって初めてわかる。人に聞いてわかる世界だが、これだけのことが、全く町外へ情報発信されていなかった。ひょっとしたら僕は大変な所に住んでいるんじゃないかという思い入れの中で、まちなみクラブとしての活動が始まった。