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わがふるさとと愛媛学Ⅱ ~平成6年度 愛媛学セミナー集録~

◇江戸東京学

 さて、江戸東京学というのは、私が12、3年前に言い出したんです。これは、言い出した時にはまだ地域学なんていうものはありませんでしたから、大分いろんな所から問い合わせがあったりしました。それで、3、4年いたしましてから、横浜学というのを作るから、出て来いということで行ったのですが、本当に熱心な集まりでした。そこで地域学をやっておられる所を全部調べられた。今、全国で63ぐらいあるんですね。これは県単位だとか、町単位、市単位であるとか、色々な単位がある。これは素晴らしいことだと思うんです。自分たちの住んでいる所を見直そうということはですね、やはり、原点に帰るということですからね。己自身を見つめるということにもつながるし、地域の特性を発見することにもなる。
 江戸東京学というのは何だとしつっこく言われるものですから、私が一応規定したのは「江戸東京学とは、江戸から今日までの都市形成発展と文化変容の過程を一貫した視野からとらえ、その連続性や非連続性と江戸東京の都市としての特性を学際的に研究する開かれた学問」だとしました。随分大それた、よろずやみたいな事を言っておるのですが。この意味はどういうものかというと、江戸東京の場合には(もちろん農村部もあるわけですけれども)都市の歴史というものをきちんと仕上げないと、これはやっぱり江戸東京学とは言えない。ですから都市学であるけれども、同時に地域学でもある。そういう意味合いでこういうことを言っているのであります。
 また、連続性、非連続性というのはですね、これはまあ、愛媛学などでも、先程来、例の1945年をひとつのメルクマールにして、その前後、どこでどう変わったかというお話があった。特に価値観の相違というのはこれは大きい。価値観の相違という点では、もっと日本文化史上最大の価値観の転換というものは、明治維新の時ですから、1868年を契機にした。ここをどうするのかという事を、やっぱり押さえる必要がある。それがないとですね、やはりわからない。それが、東京のような大都市の場合には顕著に現れてきている。それから、続いているところと続いていないところを押さえる。それを一つ一つ調べあげていく。
 それから、学際的に研究するということはどういう意味かと言うと、今、私は歴史学をやっております。けれども、社会学の人たち、あるいは歴史地理学の人たち、そういう人たちが同じ物を見てまいりますと、大分様子が変わってくる。例えば江戸の町というのは最初、今の皇居のところ、大手門のところまでが入江になっていたんですね。日比谷の入江といいまして。日比谷という地名は、谷間に海苔の篊(ひび)が見えるという意味でありまして、海苔を採っていたんです。それで、日本橋から新橋に至るまでが、ずっと一本、半島のように伸びておりまして、そこだけが江戸前島という陸地だった。だから今でも、東急の本店からはいい清水が湧(わ)くんですよ。でも丸の内あたりはダメ。これはかつて海ですから。それから汐留の方もダメですし、歌舞伎座のある築地あたりもダメ。これも埋立地でありますから。
 そういう半島状のところを埋め立てをして、武家地と町家を作った。その作った時に、どのくらいの割合だったかというのは、最初のころはわからないのでありますが、江戸中期以降、百万都市になってからは、江戸全体の土地の7割を幕府の土地や大名屋敷が占めている。残りの3割を、ほぼ半分にして、1割4分が神社とお寺、1割6分が町地となっていた。町地に住んでいる人間と、その他武家地、寺社地に住んでいる人間がほぼ同数。五十万、五十万で、その五十万の町人が、1割6分の町地に住んでいる。こういうことになりますと、どうしても、この松山のように立派な家を建てられたら、たちまちはみ出してしまうわけですね。だから九尺二間の長屋を作るということになる。九尺二間というと、四畳半で、そして一畳半が出入口と炊事場という建物になる。それで、トイレは共同、個人の風呂は絶対に作ってはいけない。湯屋に行く。そういう仕組みになっている。
 ところが、この中が実にうまくできておりまして、30軒40軒単位で木戸があって、朝晩閉まってしまう。特別な、例えば妊産婦がいて急に産気づいたなんていう時はすぐ開けてくれる。それから若者がちょっと遊びに行こうというと、木戸番にちょっと賄賂(わいろ)をやるとすぐ開けてくれる。そういう便利な木戸なのでありますけれども。その中は完全に一体化した社会なんです。世の中の規範、生きる規範というのは世間様。お天道様という言葉がありますが、それは世間様、お天道様に顔向けできないようなことをしてはいけないという意味です。その木戸内の人たちは親類以上ですね。だから子供を叱って、隣のおばさんが叱ってくれたというと、お母さんが手をつないでその子供を連れて、お礼に行くんですね。今そんなことをやってごらんなさい、大変なことです。
 これが実は私の言っている、国内、国際社会におけるいわゆる共生意識です。どこの都市でも、これが今なくなっている。ところが、この愛媛のようなゆったりしたところにはですね、まだそういうつながりがたくさん残っているのではないだろうかと、先程のお話しを承りながら、それをつくづく感じたんです。
 私は、小田急沿線に住んでおりまして、先ごろ新宿の駅で、電車とプラットホームの間に挟まれてしまったことがありました。もし電車が動き出したら、今日ここには来られないのでありますが、停車した電車でした。だけれども大変な怪我をしまして、5年ほど前の話なんですけれども、今でも傷がまだ残っております。雨の日でプラットホームにいっぱい人がいて、私は次の電車を待っていた。ところが先の電車がどういうわけかこっちへ入ってきた。うわーっと押されまして、落っこちちゃった。屈強な男の人が助けてくれましたものの、私の頭の上をハイヒールやドタ靴が飛び越えていく数分の間は生きた心地がしなかった。もうこんな所に住んでやるもんかと思いました。ところが私の家は240年ほどお江戸に住んでおりましたから、そう簡単に離れられるはずがないんです。それでも墓所もろとも全部引き払って、どこか田舎に行ってですね、悠々と暮らそうというふうに親戚の者に言ったら「暮らせるものなら暮らしてみろ」と言われてしまいました。神戸に1年、上越に2年で、すぐ東京に帰ってくる私の過去を知っているからなんです。