データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業Ⅰ-伊予市-(平成23年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 中山の農林業②

(2)中山の栗

 中山の栗栽培について、Cさん、Dさん(昭和10年生まれ)、Eさん(昭和12年生まれ)から話を聞いた。

 ア 日本一の中山栗

 「大洲城主の加藤泰興(やすおき)(1611年~1678年)が参勤交代で、当時の将軍徳川家光(いえみつ)に会うため江戸へ行くときに、中山に住む太兵衛(たへえ)という家来も一緒にお供(とも)することになり、中山の栗を持って行き、殿様から将軍へ献上したところ、将軍からお褒(ほ)めをいただいたことから、中山栗が日本一になったと伝えられています。
 中山で農業をしている家で、栗を作っていない人は少なかったです。大なり小なりみんな作っていました。どの家にも、栗はありました。ただ、農家の人で、栗を作っている意識がある人は少なかったです。自分の農地や山に自然に生えていて、秋になると収穫ができた感じでした。」

 イ 栗栽培を始める

 「私(Dさん)は農業高校を卒業して以来、篤農家(とくのうか)になるのが夢で、結婚した前後の昭和30年(1955年)ころから、家に帰って農業に取り組んでいました。祖父が赤中(あかちゅう)(栗の品種)を作っていたので、それをうけ継いで栗農家になりました。その当時、この地域では林業が盛んでした。
 私が一から勉強したのが、栗作りです。篤農家になるため、栗の品種も何も分からない状態でしたが、仕事をしながら、他所(よそ)の村や先進地にも行って栗の勉強をしました。幸い、昭和30年代には国の農業構造改善事業があり、その恩恵で栗の栽培面積を拡大しました。農地を、ブルドーザーやユンボなどの機械で開墾(かいこん)できるようになったので、山林からの転換もできるようになりました。人力だけでは、土地を耕すのは限界があり、まして道路がないことには効率の良い農業ができませんが、運良くそういった基礎の改革と同じ時期に、栗の栽培に携(たずさ)わることができました。
 私(Eさん)は、昭和30年(1955年)ころはタバコ農家でしたが、当時から栗は大なり小なり栽培していました。その後、昭和46年(1971年)ころからミカンに切り替えましたが、中山では、ミカンを栽培するには寒さが厳しく困難なため、平成に入ってからは栗を主体にしました。
 中山の栗は、以前は何もせず自然に収穫できていました。肥料などもやらず、耕しもしないのですが、それでも栗が収穫できました。熱心な農家は栗畑を耕す人もいましたが、多くの人はそのままでした。それどころか、栗畑に生えている草を他(ほか)の畑の肥料に持って帰るぐらいでした。粗放(そほう)栽培という感じでも大丈夫でした。
 いつからとは分かりませんが、最初栗作りは栗田(くりだ)地区が盛んだったと思います。昭和30年代や40年代は、栗田・小池(こいけ)・影之浦(かげのうら)で生産が盛んで、それから順々に、盛んな地域が替わってきました。
 昭和30年代から40年代は、中山の中心部では栗ができなくて、私たちが住む奥地でできていたのです。20年たつと今度は、奥地ができなくなって、中山でも温かい中心部が栗の産地になりました。中山のなかでも、産地は時代とともに移行しています。栗は非常にデリケートな作物です。成長が早くて、作りよい作物ですが、ミカンに比べると何倍もデリケートです。
 中山では、標高400m以上の高冷地に自生の栗があったのが始まりで、食用として栗の実を採るというよりは、建築用の木材として使うことが主でした。昔は、今のようにコンクリートがなかったので、家を建てるときに、家の基礎に栗材を使っていました。栗の木は腐らないので、主に家の土台に使われていました。ヒノキよりも栗は硬い木です。家の内装などは、ヒノキに勝るものはないでしょうけど、ヒノキでは柔らかくて土台になりません。お城にしても昔の家にしても、土台は全部栗の木です。それも自然に自生している栗の大木でないといけないのです。食べる栗を作るために接木(つぎき)しているような栗の木では、土台にはなりません。神社仏閣など古い建物は、雨風が当る外回りの柱にはケヤキが、雨が当らない部分にはヒノキが、そして土台には栗が、それぞれ使われています。自生していた山栗を、この地域に合った農産物になるように世話したら、大きい実がなりました。現在でも、接木とか品種改良をしながら、よりおいしくて食べやすい大きい栗になるようにしています。
 この最近、栗の価値は栗の大きさで評価されるようになりましたが、昔は栗の味で評価していました。ですから、小さい盆栗(ぼんぐり)の中でも小さいほうだった小池盆栗は、まこと(本当)に小さいのですが、味が良かったので、一時はかなり栽培されていました。昔は、加工技術がなかったので、栗そのものがおいしくないといけなかったのです。それが今では、栗自体に味つけをして加工するので、加工用として大きい栗が評価されるようになりました。
 栗は、3年すると実がなりだします。2年目ぐらいでも少しは収穫できます。栗の木自体は、30年も40年も持ちます。収穫量が多いのは、樹齢が7、8年の木が一番多いのですが、古い栗の木でも、剪定(せんてい)をきちんとしたら、樹齢が7、8年の木と変わらないぐらい収穫できます。ただ、木が太ってくると、栄養が木にいって、よい実ができないと言われています。そのため、枝の部分を切って新芽に切り替えて収穫します。
 栗栽培で一番忙しいのは、秋の収穫の時期です。秋はイノシシの被害でも大変な時期です。12月から3月までは剪定(せんてい)、春夏は虫と病気の消毒と結局年中忙しいです。
 それでも休みの日は普通にあります。雨の日も休みです。しかし収穫の時期になると休みはなく、雨の日でも収穫します。実が落ちてから1週間も放っておいたら、商品になりませんので、時間との闘いになります。園地(栗園)の面積を広げすぎたら、収穫する人手がないと大変です。
 現在では、中山栗の振興を図るため、間伐(かんばつ)剪定を実施し、肥培(ひばい)管理を徹底して行い、大玉栗(2L以上、1個あたり約25~28g)で10a当たり300kgから400kgの収穫を目標にしています。また品種では、味の良い品種を中心に銀寄(ぎんよせ)(栗の銘柄)のほか、筑波(つくば)や石鎚(いしづち)など8品種を奨励品種として取り組んでいます。」

 ウ 栗の品種や病気

 「栗の品種は、最初は赤中(あかちゅう)が多かったです。赤中に比べて小ぶりの黒中(くろちゅう)もありました。味は、赤中と似ていますが、見た目が少し違うだけでした。黒中は、粒が小さかったので、あまり多くは作ってはなかったです。
 私(Eさん)も赤中を作っていました。しかし赤中は、ウドンコ病やシラシブ病にやられて、少なくなりました。その実がどの程度の大きさの栗で、どのぐらいの量の栗が生産できるかが問題になります。サイズが2L以上でないと、製品として価格が安くなります。
 筑波(つくば)という品種がありますが、昭和54、55年(1979、1980年)ころ、多くの木がクリタマバチの被害にあいました。クリタマバチやカツラマルカイガラなど、栗の木につく虫を駆除(くじょ)しないと、すぐ木が枯れてしまいます。最近、中国オナガコバチを入れたので、クリタマバチは減ってきたのですが、それでも、栗は放任園(ほうにんえん)があるので、放任園の弱い木の芽にクリタマバチがついてしまいます。きちんと肥培(ひばい)管理してないと、虫害が広がるのです。
 虫がついた栗の実を持って帰って、透明のビニール袋の中で成虫になるのを待って、虫が成虫になった時期を見て、消毒をします。虫が実に入っている時期に消毒しても効果がないので、虫が成虫になったころに消毒します。そういうふうに、自分で研究して対応しなければなりません。
 クリイガアブラ虫も始末が悪いです。昭和50年代のことですが、小麦粉をイガの頭にふりかけたみたいに、虫がいっぱいに栗に付きました。それに薬をかけると、虫はあわてて逃げて、やっとイガが見える感じでした。虫の厚みが何十匹も重なったようになっていました。薬をかけても上の方で重なっている虫3匹ぐらいを駆除できる程度で、その下にいる虫は駆除できないぐらいに重なっていました。そのため栗は全滅です。」

 エ 栗を運ぶ

 「道路の整備ができてないころは、林業でも同じですけど、耕作面積の拡大はできなかったです。私(Dさん)たちは、山奥にある自生栗を扱っていたので、それを出荷するため、馬やネコグルマ、簡単なソリで運んでいました。私はネコグルマを引くのがおもしろいので、『栗を積め。持って行っとけ。』と言われたら、3kmから5km先の集荷場までネコグルマで持って行っていました。
 小池地区から出荷するのは大変だったようです。『今では使わないような大きな籠(かご)に入れて、ネコグルマに積んで、道なき道を運ばないといけないので、難儀(なんぎ)なかった。』と聞きました。栗を集めて、ケンド(選別具)で通して、大中小に選別します。栗を生産した人が、仲買人の店に売るため、近くの県道まで運んでいたそうです。
 自動車での運搬は、昭和40年(1965年)ぐらいからです。昔は、オイコで運んでいましたが、収穫量が増えてからは、ネコグルマや他には、『スラシ(ソリ)』で運んでいました。私(Dさん)は『スラ』と呼んでいました。平地では前から引っ張ります。斜面を下るときはスラの前に立って、スラが動き始めると、かじ棒を1本持っておいて、スラの下に棒を差して、ブレーキをかけて止めます。そうやってスラを操作しながら山を下りました。傾斜があるので荷を下には運べるのですが、スラを山の上に運ぶのが大変でした。自転車でも下りはいいですが、上りは押して登る必要がある地形でした。
 私(Dさん)らは、スラを担いで上がっていました。スラを引いて上るほうが、かえってしんどかったです。あの当時は、出荷用の50kg袋が多かったのですが、それを二つ三つ積んでも大丈夫でした。150kgぐらいは乗せていました。
 スラは棒切れだけで操作するのでなく、自分の足で突っ張るようにして、足自体を滑らすようにして、進みます。そんな原始的な方法で運んでいたのです。スラの下には、スキーの板みたいに先を曲げた竹をつけて滑っていくのです。そうすると、障害物があってもよけてくれます。体重が軽い人は、軽いスラを作るようにします。その代わり強度が落ちるので、積載量(せきさいりょう)が違ってきました。
 運搬(うんぱん)には苦労していたので、道を含めた構造改善が必要でした。昭和30年代は、大型のユンボとかブルドーザーとかが身近な機械として登場してきた時期です。大きなブルドーザーを自分で買って、道を自分でつけていました。機械化が進むことで、栗の生産も発展してきました。昭和38年(1963年)に豪雪(ごうせつ)があり、その後私(Dさん)はユンボを持ちました。昭和30年(1955年)ころから始まった構造改善が終わったころです。桃栗三年と言いますが、実際に生計を立てるようになるには時間がかかりました。
 出荷先は、全て組合(農協)です。組合組織がしっかりとしていましたから、抜かすのは、ご法度(はっと)でした。組合から送るのは東京・大阪・岡山と松山ですが、阪神方面がほとんどです。東京へは昨年(平成22年)から送るようになりました。
 私(Cさん)が、中山町の商工会長をしていた昭和50年代に、県内の50ほどの商工会が、デパートで特産品を展示販売するイベントがありました。中山からは栗を出品しまして、1kg650円で販売していました。ところが、他の地域から出た栗は、550円ぐらいで100円安いのです。そこで、どう売れるか見ていたら、中山の栗が売り切れて全部なくなってから、他の地域から出た栗が売れ出すのでした。1kgで100円も中山の栗の方が高いのですが、先に売れるのです。中山とついただけで売れるブランド力がありました。現在のチラシでも、わざわざ中山栗と書いて売っているのを見かけることがあります。現在、中山では、毎年秋分の日に、栗の里公園で『なかやま栗まつり』が盛大に行われています。」

 オ 栗農家の歩み

 「昔、祖父が作っていたときは、自然に栗が出来た範囲で出荷していましたが、構造改善で道路造成と一緒に農地を開墾したので、栽培面積の拡大が数字によく出ています(図表1-2-1参照)。
 栗の栽培面積を拡大しないと収穫量が増えないので、そのためには道路の整備が大事でした。構造改善の成果で、10年して急に実績が上がりました。昭和30年代よりは40年代の方が、景気がよかったです。他の農産物よりも楽に、タダ儲(もう)けみたいにして所得があった気がします。昭和40年代には年を追うごとにどんどん増えました。生栗4kgの販売代金で女性一人役の日当がまかなえる時代でした。私(Dさん)は栗を収穫するために、旧伊予市や双海方面から10人以上雇っていました。
 昭和48年(1973年)がピークでしたが、そのころから、日本の栗苗と技術を取り入れた韓国から、皮むぎされた栗製品が大量に輸入されるようになりました。気の迷いも起こる中で、熱意と努力を怠り、病虫害や動物被害が発生したりして、投資した7、8haの栗園をやむなく荒らしてしまいました。中山栗は、質と量ともに日本一に挑戦しましたが、時代の変遷(へんせん)やグローバル化には勝てませんでした。
 現在、私(Dさん)は、中山間地の高冷地清水を利用した、桃太郎トマトの雨よけ施設栽培に取り組んでいます。」

図表1-2-1 中山栗の年別出荷量と栽培面積

図表1-2-1 中山栗の年別出荷量と栽培面積

『中山町誌』(平成8年)から作成。