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身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)

4 えひめの農業-除虫菊からミカンへ-

 「島山の段畑うずむ除虫菊(じょちゅうぎく)」(『上浦町(かみうらちょう)誌』から)。大正時代から昭和の初めにかけて、除虫菊の花咲く5月には、瀬戸内の島々の畑は遠目には雪かと見まがうほど白一色に覆われ、島中にその独特で強い花の匂いが漂っていた。
 除虫菊は、旧ユーゴスラビアが原産地で、地中海に面したダルマチア地方の山野に自生していた野菊の一種である。はじめは鑑賞用であったが、ある家のお手伝いさんが枯れた除虫菊を捨てておいたところ、その周りで昆虫が何匹も死んでいるのを見つけ、それ以来この花の殺虫効果が研究されるようになり、花の子房に含まれているピレトリンを原料とした殺虫剤が、次々に開発されていった。
 我が国では家庭用・農業用殺虫剤や蚊取り線香の原料として利用されていくこととなる。除虫菊は、明治18~19年ころに輸入され、試作も行われた。その中で、明治19年(1886年)にアメリカ系統の除虫菊の種子を手に入れた和歌山県の上山英一郎が実用栽培に成功し、除虫菊の栽培は和歌山県から北海道や瀬戸内海の沿岸に普及した。日本の除虫菊栽培は、世界最大の需要国であるアメリカ市場の拡大によって飛躍的な伸びを見せ、大正8年(1919年)には、世界総生産高の80%を占めるまでになり、さらに昭和15年ころには世界の除虫菊の90%を生産するようになった。
 和歌山県から始まった除虫菊栽培が、広島県側の芸予諸島の島々を経由して、愛媛県に取り入れられたのは明治30年ころであり、行き来の多い広島県側からの情報も折に触れて伝わっていただけに、この換金作物に対する農家の関心は高く、越智(おち)郡(現今治市・上島町)の島しょ部を中心に栽培された。越智郡の島しょ部では、大正初期から昭和の中期まで、ほとんどの農家が除虫菊栽培を取り入れ、多い農家は5~6反歩(50~60a)もの面積を作っていたので、収穫してから出荷するまでの花の調整作業が大変であった。刈り取った除虫菊をマンゴク(千歯(せんば))で花を落とし、これを露天で乾燥させる作業である。
 『瀬戸内の島々の生活文化』の中で上浦町(現今治市上浦町)の**さん(大正14年生まれ)は、除虫菊の栽培について、次のように語っている。
 「この時期になると、空き地という空き地はもちろん、島の幅の狭い道にまではみ出してムシロ干しをするのである。ところが、雨がボロボロということになるとさあ大変。今手をつけている仕事を何もかも放り出し、何十枚にも広げたムシロ干しの花の取り片付けを急がねばならない。お年寄りも子どもも、手伝える者は全員総がかりの大仕事であった。」
 本県における除虫菊栽培が急速に伸びたのは大正期に入ってからであり、最盛期の昭和10年(1935年)には、栽培面積が1,788町歩(ha)に及んで、全国第3位の生産県として発展し、戦前までは1,000ha以上の面積を保つ全国でも屈指の除虫菊産地として位置付けられていた。
 その後、戦争に入ってからは食糧増産を第一に強いられて、次第に栽培面積が縮小されたものの、戦争が終わり、食糧事情が好転すると除虫菊栽培も再び上向きに転じた。昭和28年(1953年)には県農業試験場岩城(いわぎ)分場が設置され、当時の島しょ部の特産として栽培されていた除虫菊の試験研究に成果をあげた。
 しかし、その一方で、昭和20年代後半から高まったミカン栽培への転換は、昭和30年代に入るとさらにそのピッチを上げ、かつて瀬戸内海一帯に一時代を築いた除虫菊作りも、昭和45年ころにはその姿を見ることができなくなった。