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身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)

5 えひめの漁業・製塩-真珠母貝養殖-

 真珠母貝(しんじゅぼかい)養殖とは、アコヤガイの稚貝(ちがい)を採取して真珠養殖業者に販売するまでの間の養殖のことである。宇和海(うわかい)沿岸では、昭和20年代まで盛んであったイワシ漁が、昭和30年代に入り不漁になった。真珠母貝養殖は、昭和30年代後半に始まり昭和50年代に定着した後、昭和末期から平成の初めごろには最盛期を迎えた。平成8年以降はアコヤガイの大量斃死(へいし)のため生産量が激減したが、現在も生産量・生産額ともに全国の7割以上を占めている。
 内海(うちうみ)村(現愛南町)は、この真珠母貝養殖で全国一の生産を誇り、由良(ゆら)半島には「真珠御殿」と呼ばれる豪邸(ごうてい)が立ち並んだという。『愛媛のくらし』の中で、旧内海村魚神山(ながみやま)で母貝養殖に携(たずさ)わった**さん(昭和9年生まれ)は次のように語る。
 「魚神山地区はもともと半農半漁でくらしを立てていました。昭和20年(1945年)ころまでは沖取りの巾着網(きんちゃくあみ)が盛んなところでしたが、昭和30年代後半ころから真珠母貝養殖が始まり、昭和50年代に定着しました。
 杉葉による真珠の稚貝の天然採苗(さいびょう)の技術は、平山(ひらやま)や赤水(あかみず)(いずれも愛南町)で、県下に先駆けて始まりました。魚神山でも、昭和37年ころ、地元の漁師の有志たちが真珠母貝養殖に取り組んでいました。この地区では、昼は真珠母貝養殖に取り組み、夜は沖に出ての漁業という生活が昭和46年(1971年)ころまで続きました。そのうち、沖の漁業が全然駄目(だめ)だということで網はいっさい無くなり、真珠一本での仕事になりました。昭和50年代に入って真珠母貝養殖も安定してきました。魚神山地区では真珠稚貝の付着もよく、他県からの需要があり活況を呈(てい)していました。真珠の景気が良くなってからは、畑では作物をいっさい作らなくなってしまいました。
 わたしは一人で、2,500本から2,800本もの杉葉をつるしていましたが、魚神山地区の漁場は広く、手広く採苗でき、4年間くらいは景気が良かったのを覚えています。5月中旬に杉葉を入れ、6月下旬にそれに稚貝が付着しているのを確認して集めて業者に手渡し、7月初旬には、いかだを上げていました。」
 「魚神山地区では、昭和48年から稚母貝の販売制度を確立していますが、景気がよくなると個人販売が多くなりました。昭和48年から50年にかけて母貝の価格も安定し、経営が軌道に乗ってきました。昭和50年には生産量もピークになり、母貝養殖も三重県を抜いて日本一になりました。
 昭和60年(1985年)は転換期の年でした。生産量は最高になりましたが密殖のため品質が落ち、漁場改革をするようにとの指摘が買い手業者から強く求められました。当時は、各個人が思い付きでいかだを設置して養殖しており、効率が悪かったのです。そこで、組合員52人の合意のもとに、3年計画で改革に取り組みました。おかげで、品質のよい貝が生産でき、市場でも好評でした。当時は大変な苦労をしましたが、組合員には増産という大きな目標がありました。
 生産が軌道に乗ったあとの出来事ですが、朝、起きてみると沖に設置したいかだが無くなっていたことがありました。いかだに取り付けている発泡(はっぽう)スチロールの浮きが岸辺に漂っていたので、大騒ぎになりました。原因は、いかだへの養殖用ネットのつり過ぎと、急な潮の流れで浮きが海中に深く沈んでしまったのです。水圧で浮きが拳(こぶし)の大きさに収縮したために、しばってあったひもが緩(ゆる)んで浮きが移動したのです。我々もその仕組みにまでは気づきませんでした。
 昭和62年になると宇和海の稚貝の採苗の景気が悪くなり、県から密殖に対する指導がなされ、杉葉のつり数も、具体的には一人当たり250つりと規制されました。
 このところの海水温度の上昇が真珠稚母貝の成長に微妙に影響してきており、密殖などによる海水の汚染も心配されますが、今後とも環境に強く、質のよい稚母貝の養殖に取り組み、この現状を乗り切っていきたいと思っています。」
 真珠母貝養殖の導入、生産過剰、海洋汚染、温暖化など、様々な試練を経(へ)ながら生産者の努力は続き、現在も全国有数の生産を誇っている。