データベース『えひめの記憶』
身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)
9 えひめの商業・交易-おたたさん-
「おたた」とは、御用櫃(ごろびつ)と呼ぶ木製の桶(おけ)に魚を入れ、頭上にのせ、松山(まつやま)とその近郊に「魚はいらんかえ」「魚おいりんか」などと呼んで家々をまわり、魚を売り歩いた松前(まさき)町や松山近辺の女性をいう。正岡子規も明治25年(1892年)に、初夏の五月雨(さみだれ)にしっとりと打たれながら、かかえ帯(体の前で締めてふくらみを持たせた帯)をして一生懸命に魚を売り歩くおたたの姿を見て、「五月雨や 漁婦(たた)ぬれて行く かかえ帯」と詠んでいる。
『えひめ、女性の生活誌』の中で松前町の**さん(大正14年生まれ)は、昭和20年代の行商について次のように語っている。
「毎朝4時に起きて、漁に出ているお兄さんと主人が帰ってきたら、とった魚をみんなで分けます。うちはえびこぎ船を持っていたので、近所でおたたをしている人が10人くらい魚を買いに来ていました。それから7時ころに魚の入った御用櫃を持って汽車に乗ります。松前から市駅までは30分ぐらいかかりました。市駅に着くと御用櫃をいただいて(頭上にのせて)得意先を回るのです。昭和22年(1947年)から23年ころにおたたをしている人は、100人ぐらいはいたと思います。松前や郡中(ぐんちゅう)の人がたくさんしていました。松前でもおたたをするのは浜(はま)の人だけです。町の人はしません。浜の人でも松山や外(他地域)から嫁に来た人は、ほとんどしません。汽車に乗って松山が近づくと、岡田(おかだ)、余戸(ようご)、土居田(どいだ)のそれぞれの得意先へと順々に降りて行っていました。おたたはそれぞれに得意先を持っていて、お互いにそれを守っていました。私たちは、娘時分におたたはしていません。私たちの世代が始めたのはみんな結婚してからです。昔の人、今90歳代ぐらいの人は16、17歳ころからおたたをしていたと聞いています。1か月に22、23日は行商に出ていました。雨の日もお客さんは家にいるので行きます。魚はイカ、タコ、デベラ、イワシ何でも売っていました。今は市場を通しますが、当時は朝、漁でとれたものは何でも持って行き売っていました。とれた魚は残していても何にもならないのですべて売ってしまわなければならなかったのです。午前中には商売を終えて、午後1時ころには家に帰っていました。行商に出ないときは、いりこの製造をしなければならないので休む暇はありません。朝4時に起きて夜11時に寝る生活をずっと続けていました。」
御用櫃をいただいての行商は昭和20年代後半から、カンカン(ブリキ缶)を背中に背負った行商へと変わり、さらに昭和40年代になるとリヤカー(乳母車を改造した四輪車)にトロ箱を積んでの行商へと変化した。現在、松前町ではおたたによる行商は姿を消し、軽トラックで近郊を行商する人が数人いるだけになっている。
おたたの遠距離行商販売の一つに「かんづめ行商」がある。「かんづめ」とは1斗(と)缶の容器に珍味を詰めて運んだことに由来する。戦前には日本全国はもとより、朝鮮や台湾、中国東北地方(旧満州)まで行商に出かけ、広く活動していた。昭和5年(1930年)に1,508名いたかんづめ行商者も、昭和14年(1939年)には戦争の影響を受け403名に激減した。
『臨海都市圏の生活文化』の中で松前町の**さん(大正2年生まれ)は、中国東北地方(旧満州)でのかんづめ行商について次のように語っている。
「珍味の行商は、中国東北地方(旧満州)へ行っていました。だいたい落ち着くとこはチャンチュン(長春)かハルビン(哈爾浜)です。そこを中心にして商売に出ていました。春に行って節季(せっき)(年の暮れ)に松前に帰っていました。どこへ売りに行っていたかというと、もう、国境へまで行っていました。料理屋や旅館、むかしは『カフェ』(主として洋酒類を供した飲食店)と言っていたところにも行きました。日本人が商売をしているところへ売りに行くのです。」
戦後、かんづめ行商は北海道を中心に行われ、昭和30年代には松前からも30人ぐらいの人がかんづめ行商に出ていたが、現在では行われていない。