データベース『えひめの記憶』
身近な「地域のたからもの」発見-県民のための地域学入門-(平成22年度)
10 えひめの村の生活-水田耕作と女性-
「村」というのは二つの意味がある。一つは、行政区画や行政組織としての村である。愛媛県では平成の市町村合併の結果、村はなくなり、11市と9町になった。もう一つは、人家が群がっている「むら=村」のことで、生活共同体の範囲をさしている。江戸時代の伊予国には、村(現在の大字の範囲)がおよそ1,000あった。
村は、農村・山村・漁村などに分類されるが、ここでは農村の女性のくらしを紹介する。『えひめ、女性の生活誌』の中で、西条市丹原(たんばら)町の**さん(大正15年生まれ)は、農作業のうちで最も大切な水田耕作について、女性の労働を次のように語っている。
「昔は田植えといえば女の仕事とされていました。植え手のことを早乙女(さおとめ)と呼びます。農家の女性がかすりの着物に赤いたすきをかけ、手甲(てっこう)、きゃはんに白い手ぬぐいを身に付けて、1年で一番輝く時でした。その華(はな)やいだ雰囲気とは裏腹に、田植え作業は重労働です。
1日中、腰を曲げて体を二つに折っての作業は苦行そのものでした。朝から田植えを始めると夕方には手足がむくんできます。朝早くから働けば1日で約16時間は水の中にいるのです。雨が降れば、ミノカサを着なければなりません。連日腰を曲げた作業が10日から15日ぐらい続くのですから、腰の痛みはたまりません。
当時の田植えは、人がたくさんいるので親戚(しんせき)同士で助け合い、5人から8人ぐらい手間をそろえて共同でする手間替えを行っていました。自分の家の田植えが終わると、次は親戚の家を手伝うというやり方です。
田植えをして、1週間ぐらいすれば、『もとかき』といって稲の株元の分(ぶん)けつをよくするために、株元の泥(どろ)をのけていきます。手作業でするので手のつめが磨(す)り減ってくるのです。やらなくても分けつしたと思いますが、いらないしんどいことをしていました。田植えの後から夏にかけての草とりは、コロガシ(中耕(ちゅうこう)除草機)を使っていました。田んぼの中の土を反転させて草をとる機械です。1日中裸足(はだし)で田んぼの中を歩くので、足の裏の皮がはげてきて、痛くて歩けなくなっていました。草とりの中でも、一番しんどかった仕事は、『しまい草』です。草とりで残った草を田んぼの中をはいながら、手で草をとる作業です。田んぼが1町(約1ha)あろうが、すべて手で行います。はって行うので腰や胴が焼けるように痛くなるのです。夏場で稲の丈(たけ)も伸びてきています。暑いうえに稲の葉が茅(かや)のようになっているので、頬(ほお)かむりをしていても擦(す)れて痛いのです。ときには稲の葉先で目を突いたりすることもありました。田植えもきつい作業でしたが、それ以上にしんどい仕事でした。
秋祭りが終わると稲刈りが始まります。10月下旬からです。家族みんなが鎌で稲を刈ります。1枚の田んぼを刈り終えると女の人は、腰にくくりつけたわらで刈りとった稲を束(たば)ねていきます。その間に男の人が稲木(いなき)を立てていきます。それが終わると稲束を稲木に掛(か)けていくのです。稲刈りは10日間ぐらい続きました。稲刈りも肩や腰が痛くなり大変な作業でしたが、田んぼで食べるお弁当は格別においしいものでした。稲刈りが終わると11月3日ころから稲扱(こ)ぎをします。実家では、足踏み脱穀(だっこく)機を使っていましたが、嫁(とつ)ぎ先では、すでに動力脱穀機を使っていました。
昔は籾摺(もみす)りといえば籾摺り屋さんがいて、機械を持って村の家々を回り、賃摺りをしていました。嫁ぎ先の舅(しゅうと)が籾摺り屋さんでした。籾摺りの日には、家族総出で親戚や近所の人にも手間替えで手伝ってもらっていました。女の人は、スクモ(籾がら)の始末をします。スクモの始末をしていると体中がはしかく(チクチクと痛がゆく)なってたまりませんでした。昼食は、その家の主婦が準備をします。籾摺りが終わると、体中についたスクモやほこりを落とし、みんなで夕食を食べます。夕食にはお酒も振る舞われ、ご馳走(ちそう)を食べ、酒を飲みながら四方山話(よもやまばなし)に花を咲かせていました。」
農作業で苦楽をともにしながら生産することの喜びが伝わっってくる。