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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1)新宮でのくらし

 ア 切手の販売

 「新宮地区には郵便局がありましたが、当時は郵便局だけではなく、いろいろなお店が切手の販売を取り扱っていたことを私(Bさん)は憶えています。大野店は今でも切手を扱っていますが、当時はそのほかのお店でも扱っていました。上山地区には今でも切手の取扱所がありますが、昭和40年(1965年)ころは、切手の取扱所はいくつかあったと思います。郵便局の方が、配達中に休憩のために立ち寄っていたようなお店が取扱所になっていたと思います。」

 イ ミツマタ・コウゾの栽培

 「昭和40年(1965年)ころには、和紙の原料となるミツマタやコウゾを出荷して現金収入を得ていた農家の方がいたことを私(Aさん)は憶えています。当時、私たちは、『1万円札は新宮のミツマタで作られた紙でできているかもしれないなあ。』と言っていたことを憶えています。
 歴史的にみると、新宮は傾斜地が多く、米作りには不向きであったため、江戸時代からミツマタやコウゾが盛んに栽培されてきたのです。」

 ウ 他地域からの定着者が多い新宮村

 他地域から新宮村への移住について、Aさんから話を聞いた。
 「新宮村で代々生活をしていた人の中には村を離れてしまった人も多く、今もこちらに残っている人は本当に少なくなりました。その一方で、新宮村には他地域から移って来た人が多くいます。そのうち最も多いのは徳島県出身者で、戦前からこちらに移り住んでいます。また、三島、川之江からこちらに移って来た人もいます。馬立川上流の地域に住んでいる人の中には、高知県から移って来た人が多くいます。徳島県や三島、川之江から移って来た人は、行商でこちらへ来てそのまま定着したようですし、高知県から移って来た人は、新宮村の人と結婚してこちらに定着した人が多いようです。」

(2)過疎化の進行

 新宮村の過疎化の進行について、Aさんから話を聞いた。

 ア 意気盛んだった昭和30年代

 「昭和30年代の新宮村は意気盛んなところがありました。新宮鉱山を日本鉱業が採掘していたとき、私の記憶では、少なくとも100人以上の人が就労していて、その中には本社から転勤して来た人たちもいました。私の同級生にもいましたが、そういう人たちの都会的感覚は周りに影響を与えていたと思います。その人たちが会社から給料をもらって生活をしていたこともあって、村内は活気がありました。
 ところが、昭和37年(1962年)に新宮鉱山から日本鉱業が撤退し、新宮鉱山株式会社が設立されたことが、その後の新宮の衰退の始まりであったように思います。
 昭和40年(1965年)ころは、日本鉱業の撤退が新宮村に与えた影響はまだ小さかったと思います。当時は、新宮村で日常生活に困るようなことはありませんでしたし、新宮村のどの地区でも次第にテレビを見ることができるようになりました。また、このころから、中学校を卒業すると多くの生徒が高校へ進学するようになりました。それまでの時代は、卒業生150人くらいのうち、高校へ進学するのは70人から80人くらいでした。ほかの人は就職していましたが、地元に残った人はほとんどおらず、多くの人は関西地区の会社に就職していました。私の友人も中学卒業後に新宮村から出て行ってしまい、この近辺に残っている人はほとんどいません。」

 イ 一挙に人口が減る

 「昭和40年(1965年)ころから、新宮村では学校の統合、閉校が見られるようになります。昭和39年(1964年)から40年にかけて、新立中学校と上山中学校が名目、実質統合して新宮中学校になりました。古野小学校は新宮ダムの建設に伴って、昭和49年(1972年)に閉校となりました。
 ダムの建設に伴い、中山神社の氏子さんが激減しました。それまで中山神社には130戸の氏子さんがいたのですが、70戸にまで減少しました。というのは、ダムの建設によって水没する方が村を出て行っただけでなく、『そんなに出ていくなら、うちも出て行こう。』と、水没しない地区の方も出て行ってしまったからです。そうしたことが村内の全域で見られました。昭和53年(1978年)に新宮鉱山が閉鎖すると、鉱山関係の人々が一挙にいなくなりました。
 熊野神社の氏子さんもかつては180戸ありましたが、現在は70戸と半分以下になっています。熊野神社では、お正月が近づくと、旧新宮村内全ての皆さんに神宮大麻というお札をお配りしています。昭和40年代には650体から700体くらいお配りしていましたが、今は300体にまで減っています。今、考えてみると、一挙に村の人口が減少してしまったということが、現在の新宮が抱える問題の全ての原因に行きつくと思います。」

 ウ 少子高齢化の進展

 「新宮では、少子高齢化の進行によって子どもの声が聞こえなくなって久しくなるとともに、過疎が深刻な問題となっています。新立中学校と上山中学校が統合して新宮中学校になりましたが、平成19年(2007年)に新宮中学校と新宮小学校が統合して新宮小中学校となり、2年前には校舎が新築されています(写真1-2-11参照)。先日、校長先生とお話しする機会があったのですが、現在、児童・生徒数が50人を切っているそうで、そのうち、10人ほどは、三島、川之江から来ている子どもたちだそうです。私も教員として勤務した経験がありますが、クラブ活動など教育活動全体を考えてみても、子どもは大勢いる中で育てた方が良いのではないかと思います。現在、中学校の生徒数は10人くらいで、バレーボールが辛うじてできるくらいの人数しかいないので、学校はこの先どうなるのだろうかと心配しています。
 私が子どものころには、宮川橋の辺りで、大勢の子どもが集まって、鬼ごっこをしたり、夏にはゲンジボタルを獲ったり、冬には雪合戦をしたりして遊んでいたものでした。私が家で熱を出して寝込んでいたときには、夕方になると子どもたちの声が頭に響いて辛(つら)いくらいだったことを憶えています。子どもの声が聞こえなくなることくらい、寂しいことはありません。」

 エ 後継者不足の農家

 「秋のお祭りのときには、その年に収穫された稲穂を神様にお供えするのですが、今、新宮では新しい稲穂を手に入れることが難しくなっています。農家では後継者がいないため、稲作を行っている農家がほとんどないうえに、わずかに残っている農家も、田をイノシシとサルに荒らされて稲を収穫することが難しくなっているのです。お茶の栽培についても、一部の業者などが行っているだけです。収穫時に葉っぱの摘み子さんに支払う日当が1万円もかかりますし、業者に製茶料も支払わなくてはならないので、案外多くの費用がかかります。それに個人では販路もないので、仮に畑があっても荒らすしかありません。私のところでもかろうじて、よそに配るお茶を作るくらいです。春の新宮の香りをお届けするためにお茶作りを続けているのです。」


<参考文献>
・新宮村教育委員会『しんぐう』 1972
・新宮村『30年のあゆみ 新宮村』 1984
・愛媛県『愛媛県史 社会経済3 商工』 1986
・愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』 1988
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』 1994
・新宮村『新宮村誌』 1998
・愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会『愛媛県の歴史散歩』 2006
・愛媛県生涯学習センター『えひめ、人とモノの流れ』 2008

写真1-2-11 新宮小中学校の新校舎

写真1-2-11 新宮小中学校の新校舎

平成30年6月撮影