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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業26-松山市③-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

 (1) 森松商店街のにぎわい

  ア 森松商店街の様子

 「大正・昭和初期の森松(もりまつ)町は、道路は砂利道で馬車や牛車が通っていたと私(Aさん)は聞いています。その頃の人の往来は、久万山や小田(おだ)の奥から買い物に来る人もいれば、松山市内へ行く人たちの中間地点でもありました。餅屋、宿屋、飲食店があり、宿場町としてにぎわっていました。近辺の坂本、砥部(とべ)、中山(なかやま)、つづら川などから来てこの地で暮らす人が増えていき、町として発展しました。夕刻になると五十二銀行(現伊予銀行)の行員が大きな袋を提げて1日の集金に回っていたそうです。」
 「私(Cさん)が子どもの頃、森松の商店街はいろんな人が行き交う場所でした。周辺には大きな商店街がなかったので、みんな森松の商店街に来ていました。」
 「当時は立花の駅を過ぎて次の商店街は森松でした。石井には商店街がなくて農家ばかりだったことを私(Eさん)は憶えています。当時、私も森松に住んでいることに優越感を持っていました。森松だとなんでもそろっていて、坂本や荏原、砥部から多くの人が買い物に来ていました。肉屋も2軒ありましたし、魚屋も何軒もあり、散髪屋やパーマ屋さんもたくさんありました。」
 「私(Aさん)の親戚の家は東石井ですが、ちょっとした物を買うのでも立花の商店街まで行く必要がありました。森松なら火をつけたまま肉屋にも魚屋にも行けたので森松は便利なところだと思ったことを憶えています。森松商店街の年末の人出は、今の秋葉原のように、道路にはたくさんの人で大にぎわいでした。」

  イ にぎわっていた商店街

  (ア) 森松座の思い出

 「戦中や戦後は娯楽のない時代で、森松座が唯一の楽しみの場でした(図表1-1-1の㋐参照)。映画や芝居、浄瑠璃があったり、青年が楽団を結成して流行歌を歌ったり、多くのものがあってみんな楽しんでいました。戦時中は宝塚歌劇団が来たことを私(Aさん)は憶えています。麦を収穫する前は『麦うらし』といって浄瑠璃をしていました。戦後は青年芝居や映画の上映をしていました。
 午後11時くらいまで映画を観(み)て帰る人がたくさんいました。帰りにうどん屋で食事をして帰る人もいてにぎわっていました。」
 「森松座を『じょうごや』とみんなが呼んでいました。私(Cさん)も映画を観た記憶があります。森松座は昭和40年(1965年)くらいまであったと思います。」

  (イ) パーマ屋

 「私(Cさん)の家はニューパーマというパーマ屋をしていました(図表1-1-1の㋑参照)。森松商店街の人だけでなく、浮穴地区全体からお客さんが来ていました。当時はパーマに来たお客さんが『うちでとれた野菜よ。』と言って野菜をくれたりしていました。森松の周辺の人はみんな森松商店街に来ていたので、当時はパーマ屋さんがたくさんありました。」

  (ウ) クリーニング店

 「当時は私(Fさん)の父がクリーニング店を経営していました(図表1-1-1の㋒参照)。私が子どもの頃はパーマ屋さんはたくさんありましたが、クリーニング店はまだ少なかったと思います。
 お客さんは商店街や周辺の人たちで、企業ではなく個人、一般の人たちでした。お客さんは石井や久谷、砥部といった広範囲にいて、父がいろんなところに配達に行っていたことを憶えています。
 商店街にはバイクの修理屋があり、私の父もお世話になっていました。当時はバイクを使う人が多かったので客は多かったと思います。」

  (エ) 森松温泉

 「私(Eさん)の父が森松温泉を経営していました(図表1-1-1の㋓参照)。父が戦後に前の経営者から店を引き継いで始めたと聞いています。以前は散髪屋の裏で営業していましたが、昭和34年(1959年)に当時の伊予銀行の裏に店を移しました(図表1-1-1の㋔参照)。昔は農家にはお風呂があるところもありましたが、商店街では家にお風呂がない家が多かったためたくさんの人が来ていました。森松温泉は平成5年(1993年)まで経営していましたが閉店しました。
 昔、森松町に大相撲の巡業が来たことがあり、河原で相撲をしていました。私も見に行きましたが、風が強く弁当が砂まみれになったことを憶えています。森松温泉には、力士が座った椅子や行司が使った軍配などが残っていました。」

  (オ) 書店

 「泉田書店は、昔は本を売るだけでなく貸本屋もしており、私(Eさん)もよく借りに行っていました(図表1-1-1の㋕参照)。昔は本屋をやりながら貸本もしているお店がいろんなところにありました。泉田書店には商店街の人だけでなく、周辺に住んでいる人が来ており、砥部からも本を借りに来ていました。ほかに駄菓子も売っていて、アイスクリームを買っていたのを憶えています。」
 「レコードも売っており、私(Fさん)が初めてレコードを買ったのは泉田書店でした。お客さんが本当に多く、若者がたくさん集まっていました。」

  (カ) 旅館

 「私(Bさん)の母が旅館を経営しており、高知や久万から人が来ていたそうです(図表1-1-1の㋖参照)。昔は馬で来て旅館で休憩していたそうで、旅館で食事をしたり、泊まったりしてから松山の城下の方に行っていたと母から聞いています。馬は旅館の前につないで、森松線に乗って松山市内に行っていたと思います。」

  (キ) 株式会社相原庭園・雑貨店

 「相原雑貨店は明治42年(1909年)創業、今年(令和6年〔2024年〕)で116年です(図表1-1-1の㋗参照)。川上(かわかみ)村(現東温市)から初代の相原惣三郎がこの地で荒物、金物、乾物、種苗、陶磁器などを手広く扱った商売を始めたと私(Aさん)は聞いています。初代は働き者で、品物を売るにも『紅をさせ(売り方にひと工夫を添える)』という気持ちで商売に取り組み、萬(よろず)屋として繁盛しました。また、生活に困っている人を助け、人を雇って棕櫚縄(しゅろなわ)の製造を任せていました。
 森松の人は働き者です。私が子どもの頃は朝早くから南を向いたら2軒くらい道路に水を打っており、北を向いたら同じように2軒くらい道路に水を打っていました。それを見て早く起きないといけないと思っていました。私の家の雑貨店は、朝早くから河原に砂利を取りに行く人や工事に行く人がお客さんとして来ていました。
 戦時中は生きることで精一杯で、とてもつらい時代でした。空襲が激しくなりサイレンの音とともに防空壕(ごう)に逃げ込む生活でした。戦時中は物資がなく統制の時代で、砂糖や油、マッチなどは全て配給でした。私の店は配給所の指定店でした。また、昭和18年(1943年)には重信川の大洪水があり、田畑が流れ、家屋が浸水し、重信橋が落ちました。
 戦争が終わり、いろいろ困難な時を越え、ひたすらに商売に専念しました。戦時の荒廃から立ち直り、高度経済成長のときには生産が豊かになって商品が流通するようになり、繁栄に向かって行きました。その後、森松線の廃止などで人の流れが変わってきました。夫はこのような変化を察知して造園業を行い、私は結納の熨斗(のし)の仕事を増やしました。夫は造園業に誇りと自信を持ち、お得意様と喜びをともにして仕事に励みました。」

  (ク) 昭和自動車研究所とゴルフ場

 「昭和自動車研究所が自動車の教習所をしていたという話を私(Eさん)が子どもの頃に聞きました(図表1-1-1の㋘参照)。昔は運転ができれば免許がもらえていたと聞いたことがあります。」
 「子どもの頃の記憶ですが、自動車免許の試験は小学校のグラウンドでしていたことを私(Cさん)は憶えています。重信川の土手にはゴルフ場がありました(図表1-1-1の㋙参照)。ゴルフ場がなくなってから公園になりました。当時は森松の商店街にも重信川の土手にも人がたくさん集まっていました。」

  ウ 年末の福引

 「当時の商店街は、もうけている店が多くありました。年末には福引をしていて、商店街で買い物をしたら福引券をもらい、福引券が何枚かたまったらくじを引くことができました。昔の特賞はたんすなどでしたが、後にこんぴらさんへのお参りになり、バス2台でこんぴらさんに行っていました。みんなそれを当てたくて一生懸命買い物をしていたことを私(Cさん)は憶えています。森松の商店街は本当に潤っていたと思います。」
 「いつから年末の福引をしていたかということは分かりませんが、私(Fさん)が子どもの頃には既にしていたことを憶えています。こんぴらさんに行っていたのは昭和62年(1987年)までだったと思います。」
 「私(Dさん)は井門町に住んでいましたが、子どもの頃に母と一緒に年末の抽選会に行っていました。周辺の地域からも多くの人が来ていたことを憶えています。」

  エ 森松観月祭

 「森松の名物は戦前からある花火大会です。花火大会は森松観月祭で今年(令和6年〔2024年〕)も行われて私(Aさん)たちの心を和ませてくれています。」
 「今も森松観月祭には周辺から多くの人が来ますが、昔もすごかったことを私(Eさん)は憶えています。森松周辺の人だけでなく、松山中心部からもたくさんの人が来ていて、森松駅で降りてぞろぞろ歩いて河川敷まで移動していました。森松観月祭は森松商工業会が中心となって行っています。今は年末の大売り出しもなくなり、森松商工業会の行事は森松観月祭だけになってしまいました。」
 「魚屋の魚数が森松観月祭のときに芋炊きをしていました(図表1-1-1の㋛参照)。森松観月祭は芋炊きと盆踊り、そして花火が名物でした。商店街では店の前で月見団子を売っていたことを私(Cさん)は憶えています。今の夜店のような感じで、森松駅から河川敷に向かう人が買っていました。」
 「森松観月祭のときは駅前に櫓(やぐら)を組んで、青年団や地域の子どもが集まって盆踊りをしていたことを私(Bさん)は憶えています。今でもたくさんの人が来てくれますが、昔は本当ににぎやかでした。」
 「舞台を作って、五明や伊台から演者を呼んで伊予万歳の松づくしを演じてもらっていたことを私(Fさん)は憶えています。」

  オ 商店街でのくらし

  (ア)道路の整備

 「森松商店街の道路は、ほかの地域の道より早く舗装されていたことを私(Aさん)は憶えています。馬車が通る宿場町だったことや、人が行き交う場所だったこともあり、道路の舗装は早かったのだと思います。」
 「森松営業所から南高井に向かう県道(森松重信線)は砂利道でした。昭和41年(1966年)の全国植樹祭のときに国道33号以外の道も舗装されました。森松線の線路がなくなった後に道路が拡幅されたことを私(Cさん)は憶えています。」

  (イ)家電の普及

 「森松は商店街が発展していたので、ほかの地域よりも生活水準が高い家庭が多かったと私(Cさん)は思います。家電についても各店が競い合って購入していました。お店同士の競争もあって、あの店が買ったからうちの店も買おうというようなところがありました。テレビがある家庭もほかの地域より多かったと思います。」
 「森松温泉にも、早くから番台の上にテレビを置いていた記憶が私(Eさん)にはあります。森松は商店街の中で買い物ができて、なんでもそろう便利な町でした。当時は電器屋さんも繁盛していたと思います。」

 (2) 森松線の思い出

 「森松線は坊ちゃん列車(蒸気機関車)でしたが、昭和29年(1954年)にディーゼル化したと聞いています。椿さん(椿まつり)のときはデッキにぶら下がって乗るくらい汽車は満員でした。私(Cさん)が高校生だった昭和40年(1965年)12月1日に森松線が廃線になりました。それからはバスで高校に通学しました(写真1-1-1参照)。」
 「私(Aさん)が女学校に行っていたときは、日によっては客車が一杯でデッキの端にいるとかばんにススキなどが当たっていました。汽車が立花駅から石手川までの坂を上がらないときは、乗っている男の人たちが押していました。」
 「森松線があった昭和30年代までは駅中心に人が動いていたと私(Eさん)は聞いています。私より年上の人たちは、高校生のとき森松線がありましたので森松駅から汽車で高校に通学していました。久谷の人も砥部の人もみんな自転車で森松駅まで来て汽車を利用していました。駅前のスーパーマーケットの隣の野中薬局に、みんな自転車を預けて汽車に乗って市内へ移動していました。(図表1-1-1の㋚参照)」

 (3) 商店街の変化

 「森松の町が下火になったのは、森松線の廃線と商店街の道が駐車禁止になったこと、バイパスができて人の流れが変わり周囲に大きな店ができたことが挙げられると私(Aさん)は思います。森松は南から来るミカン農家のお客さんで潤っていましたが、車社会になって駐車場がない商店街からお客さんが離れていき、店をやめるところが増えてきました。商店街の店も規制緩和で酒屋や薬屋などいろんな店がなくなり、閉店して空き家が増えました(写真1-1-2参照)。」
 「周辺に大きなスーパーマーケットが増えたことが影響していると私(Eさん)は思います。自動車で買い物に行く人が増えていく中で森松の商店街には駐車場がないため、客足が遠のいていったのだと思います。」

図表1-1-1 昭和45年頃の森松商店街の町並み①(北側)

図表1-1-1 昭和45年頃の森松商店街の町並み①(北側)

調査協力者からの聞き取りにより作成

図表1-1-1 昭和45年頃の森松商店街の町並み②(南側)

図表1-1-1 昭和45年頃の森松商店街の町並み②(南側)

調査協力者からの聞き取りにより作成

写真1-1-1 伊予鉄バス森松営業所

写真1-1-1 伊予鉄バス森松営業所

松山市 令和6年12月撮影

写真1-1-2 森松商店街の様子

写真1-1-2 森松商店街の様子

松山市 令和6年12月撮影