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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業26-松山市③-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

 (1) 戦時中の記憶
 
  ア 戦時中のくらし

 「昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争が始まったとき、私(Aさん)は浮穴国民学校2年生でした。その当時、みんなが不自由や不便に耐え、戦争の恐ろしさなどなにも分からないまま、それぞれ生活のために働いていました。
 3年生になると男女別々のクラスになり、4年生の2学期頃までは比較的平穏な生活で勉強ができていました。それ以後だんだんと戦争が激しくなり、早く逃げよ、隠れよという合図の警戒警報や空襲警報のサイレンが繰り返し鳴りました。教室にいても空襲だ、空襲だと急いで校庭に集まり、地区ごとに並び急いで家に帰って家族と一緒に避難しました。このような状態が5年生、そして6年生の8月15日まで続き、勉強することはできませんでした。B29がバリバリと音を立て、爆弾が雨降るように落ちてきました。すごいサイレンの音とアメリカの戦闘機が頭上を飛ぶ恐ろしさに怯える毎日でした。防空壕(ごう)は清正公堂の東側に大きなものがあり、近所の子どもや弱い女の人は、空襲が激しくなると毎晩防空壕で寝泊まりしました。毎日、不自由な生活ですがそれが当たり前でした。
 みんなへとへとの腹ぺこの体で、『欲しがりません勝つまでは』の信念で一丸となり働きました。子どもたちも遊ぶことなく家の仕事をして、女子は15歳くらいで軍需工場へ動員され、子どもは空き地を耕し、作物を作り自給自足の生活の中、精一杯働きました。毎日のように出征兵士の見送りがあり、また、戦死者の村葬もありました。
 当時は、各家庭にお風呂がありませんでしたので銭湯に行っていました。お風呂でみんなと背中の流し合いをしていました。戦時中はこういうことで心を和ませていました。」

  イ 戦時中の学校の様子

 「戦時中は規則正しい生活でした。小学生だった私(Aさん)たちは毎日、班長さんの号令で整列して真っすぐ学校まで歩いていきました。校門に入ると奉安殿に最敬礼をして各自の教室に入り、朝の掃除、朝礼をして1時間目の授業です。
 物資や食糧不足の中、学用品もなく、鉛筆は短くなるまで使い、消しゴムも帳面もありません。学校では、道端にダイズを植えたり、農場のイモ掘りに行ったりして、教室で勉強することはあまりできませんでした。小学校にもクスノキの下に防空壕がありました。古い校舎には北海道部隊が駐屯していたので、新校舎で私たちは勉強していました。」

  ウ 松山空襲の記憶

 「昭和20年(1945年)7月26日夜の松山空襲のとき、私(Aさん)は防空壕に入っていました。男の人はみんな兵士として取られてしまっていたので近所のおじいさんが指揮をしてくれていました。おじいさんは『いつまでも防空壕に入っていたらいかんぞ。松山が焼けよるからおじいが出ろと言ったら出ろよ。ここにじっと入っていたら焼けてしまうぞ。』と言っていました。私が防空壕を出てみると松山の中心部がある北の空は真っ赤でした。
 空襲のサイレンが鳴りやんで家に帰ったのが午前3時半か4時くらいでした。商店街の道路は焼け出された人で一杯で、みんな南に向かって歩いていました。やけどを負った人が子どもの手を引き、リュックを背負って松山の中心部から砥部の方に避難していました。」

  エ 終戦後のくらし

 「昭和20年(1945年)8月15日正午に玉音放送があり、戦争は終わりました。3年8か月の戦争でなにも得たものはなく、ただただ苦労の連続でした。戦争は決してしてはなりません。
小学校の校舎にいた北海道部隊は終戦後それぞれの所へ帰っていきました。飯ごうなど使っていたものを置いていったのでみんなで分けました。
 戦争が終わって、私(Aさん)は来春受験でしたので、6時間目の授業が終わってから日が暮れかかるまで課外で一生懸命勉強をしました。」

 (2) 昭和20年代から40年代の記憶
 
  ア 重信橋の開通式

 「重信橋が改修されたのは昭和25年(1950年)でした。地域の人は重信橋のことを森松橋と呼んでいます。改修前の重信橋は木の橋だったと私(Cさん)は聞いています。」
 「昭和25年(1950年)に重信橋の開通式がありました。開通式のとき私(Bさん)は幼稚園児で、私たちは紅白の旗を持って列になってできたばかりの橋を渡ったことを憶えています。商店街の人たちが三味線を演奏して、私の姉も参加しました。ほかにもいろいろ行われ、みんな着飾って行事に参加しました。」
 「昔、重信橋の西には、拾町や八倉の人が森松に行くための仮橋がありました。小さな木の板の橋でした。学生が通学に使っていたと私(Aさん)は聞いています。」

  イ 東京オリンピックの聖火リレー

 「昭和39年(1964年)の東京オリンピックのときに、当時はまだバイパスがありませんでしたので、当時の国道33号である駅前の通りを聖火リレーが走りました。高知の方に向かって走りました。商店街というよりも学校が中心になって動いていたと思いますが、商店街の人たちも道路で聖火リレーを見ていたことを私(Cさん)は憶えています。」
 「私(Eさん)はそのとき小学5年生でした。学校で国旗を作り、みんなと道沿いで旗を振ったことを憶えています。」

 (3) 清正公さん

 「明治37年(1904年)の日露戦争勃発のとき、田渡(たど)村(現喜多郡内子町)より十余名の若者が熊本県の連隊に召集されました。出征に当たり十余名は熊本県の本妙寺清正公様に参拝し、戦勝と兵士の武運長久、全員の無事の帰郷を祈念しました。その際に全員無事に帰郷することができれば郷里に清正公様のお像を建立するとの願を掛けて出兵し、その十余名は全員元気で帰郷したので、人々はそのお礼に全員で清正公様の大きな木像を田渡村臼杵の山上へ建立しました。しかし、毎日のお参りに不便なため、山の麓へ移し替え給仕していました。
 ところが昭和の初めに大洪水があり、清正公様が流失してしまいました。小田川から肱川を抜け、瀬戸内海へ流れたお像ですが、ある日上灘の漁師のタイ網に大きなお頭(かしら)が掛かったのだそうです。驚いた漁師は、どうしたものかと思索しているとき、森松に熱心な法華のお講があることを知り連絡をしてきました。これを受けてお講の講員が大八車を引き現地に赴き、幾らかの金銭勘定をして、お頭を受け取ってまいりました。その後、松山市高浜の漁師杉野仙吉氏のタイ網に胴体が掛かったとの連絡を受け、講員が無償で受け取りました。今後の祭祀(さいし)の方法について法華講も田渡村の役場へ連絡し、種々検討した結果、当時の山間地は不便で、お像を受け取りに行くにも人夫や荷車の都合が付かず、道路も狭く急で牛馬でも運
 重信川河川敷に面した250坪の原野に昭和7年(1932年)4月に法華堂を建立し、清正公様を奉安するとともに、再びこのような事態が起こらないようにと、お堂の前に龍王様を勧請(かんじょう)し、昭和9年(1934年)8月には堂宇西側へ庫裡(くり)を増築するとともに、後世に残るよう胴ぶことは困難だから森松でお祀(まつ)りして欲しいとの返事をもらい、当地でお祀りするようになりました。体寄贈の杉野仙吉氏の碑を同年10月に建立しました(図表1-1-1の㋜、写真1-1-3参照)。昭和15年(1940年)に宝塔を建立、敷地の整備や植樹等を行いました。私(Aさん)の父は信仰心が厚く清正公さんを勧請し、有志の方の賛助を得てお堂を建立することに尽力しました。現在も近所の人々が朝夕にお参りしております。
 戦前戦後はお参りする人も多く、7月23日の夏の大祭日は子ども相撲や踊りをしてにぎやかで、おにぎりやおでん等を準備して子どもやお参りの人に賄っていました。
 また、現在は、夏は老人の憩いの場として参拝がてら涼み、子どもたちは安心できる遊び場としてブランコ、鉄棒等で四季を問わず楽しんでいます。境内の大きなイチョウの木は、お堂の歴史とともに神木となり、この枝を切ってその夜に亡くなった人がいるので、以後誰も枝すら切る人はいません。このイチョウはお堂の歴史を見守るシンボルです。」
 「私(Cさん)も清正公堂の土俵で相撲をしたことが思い出として残っています。子どもの頃はみんなで清正公さんの広場でよく遊びました。子どもたちの遊び場であり、地域の人たちの憩いの場でした。」

 (4) 子どもの頃の記憶

  ア 子どもの頃の遊び

 「商店街の道沿いで遊ぶということはなく、路地に入るとある広場で遊んでいました。森松商店街の子どもは広場でパッチン(メンコ)やロクムシをしていたことを私(Eさん)は憶えています。清正公さんのところでも遊んでいました。」
 「当時の子どもはどの地域でもパッチン(メンコ)やロクムシという野球のようなものをしていたと思います。私(Dさん)たちが子どもの頃は、みんなで外に集まって遊んでいました。」
 「女子はゴム飛びやお手玉をしていたことを私(Bさん)は憶えています。昔は子どもが多かったので家で遊ぶことはほとんどなく、遊ぶときは外で集まっていました。」
 「森松は汽車の終点で、森松で汽車はUターンする必要があったので、森松駅には広いスペースがありました。その広場は子どもの遊び場で、私(Cさん)たちはよくそこで遊んでいました。」
 「私(Fさん)は重信川へ魚をとりに行っていました。その頃は手で魚をつかめるくらい魚がいましたので手網でとっていました。」
 「私(Eさん)も子どもの頃はよく川で一本ヤスというものを自作しウナギを突いたりしていました。アユもカニもたくさんとれていたことを憶えています。」
 「6月にアユが解禁されると夕方に釣り竿(ざお)を持ってアユを釣りに行く人が多くいたことを私(Aさん)は憶えています。夕方になるとアユが水から顔を出しているのが見えるほどで、昔は自然の恵みがありました。」

  イ 祭りの思い出

 「私(Cさん)たちが子どもの頃は、地域の子どもはみんな仲が良かったことを憶えています。年上から年下までみんな一緒に遊んでいました。亥(い)の子などの地域の行事では、小学6年生が主になって自分たちで考えて活動していました。」
 「地域の行事は全部子どもたちが自分たちだけでやっていたことを私(Eさん)は憶えています。祭りも子どもがお金を集めて、神輿(みこし)を組んで、磨いていました。
 森松町の神社は須我神社ですが、秋祭りは宮司さんが井門町の三島神社にしかいないので、須我神社にある神輿を三島神社に運んでいました。昔は10月13日から15日が秋祭りで、提灯(ちょうちん)行列は高張提灯でした。」
 「昔は秋祭りのときにはまだ稲穂が立っていました。五穀豊穣を願って秋祭りをしていましたので稲刈りをする前に祭りをしていたことを私(Dさん)は憶えています。
 当時の森松は、祭りや地域行事もにぎやかで、子どもも大人も、町全体が元気だった記憶があります。」




参考文献
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』1984
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 浮穴公民館『戦後五十年記念誌 ふるさと浮穴』1997

写真1-1-3 清正公像

写真1-1-3 清正公像

松山市 令和6年11月撮影