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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(3)藁のお亥の子さん

 藁(わら)の亥の子をつく地域の一例として温泉郡重信町田窪(たのくぼ)地区を取り上げる。重信町は県のほぼ中央、松山平野の東部に位置し、重信川流域に開けた町である。米麦中心であった農業から、花卉(かき)(観賞用に栽培する植物)・蔬菜(そさい)(野菜やイチゴ)などの近郊農業も盛んになった。田窪地区は町の中央部に位置し、南境を西流する重信川が形成した平坦な純農村地帯であったが、近年は都市化現象が著しく、松山市のベッドタウン化している。
 重信町の亥の子について、『重信の子供の遊び』に次のように書かれている。
 「亥の子は、旧暦の10月、亥の日を祝う行事です。(中略)亥の子の神は、田んぼの神様だと信じられ、この月の日に、神様は田んぼから家へ帰られるのだそうです。その神様を迎えるために餅をつくのが、この地域の習慣になっています。また、収穫後の祝いとして、農村で行なわれる重要な年中行事でもありますし、男の子にとっては、年間を通じて一番盛んな、そして一番楽しい集団的遊びです。むかしは、男の子のものでしたが、今は女の子も男の子といっしょに、亥の子の歌を元気よく歌い各家をまわっています。子供たちの一団が各家庭を訪れます。『こんばんは、おいのこさんをつかしてくれますか。』『ぼくら、ようきてくれたのう、元気よくついてよ。』子供はにこにこして、元気な声で『さあ元気よくつこうぜ。』といい、リーダーの声で亥の子をつき始めます。
 田窪地区の亥の子歌は『いのこ いのこ おいのこさんという人は 一で俵ふんまえて 二でにっこりわろうて 三で酒つくって 四つ世の中よいように 五ついつものごとくなり 六つ無病息災に 七つ何事もないように 八つ家敷を建て広げ 九つこくらを建て並べ 十でとうとうおさまった この家繁盛せい この家繁盛せい もひとつおまけに繁盛せい。』と祝福します。元気な亥の子歌を聞いて、家々では子供たちはご祝儀と重ね餅やミカンをもらいました。しかし、ご祝儀をもらえない家の前では『いのこ いのこ いのこ餅ついて 祝わん者は おにんめ じゃんめ つののはえたこんめ。』と歌いながら足早に通り過ぎます。亥の子の日には、亥の子餅をついて祝うべきことを強調しているので、祝わん者には、鬼や蛇(じゃ)や角(つの)の生えた妖怪(ようかい)が生まれると脅(おど)しているのです。(㉕)」
 重信町田窪地区の**さん(大正15年生まれ)と**さん(昭和2年生まれ)夫妻に、亥の子について聞いた。
 「子どものころから藁の亥の子だったので、石の亥の子は知りません。藁の亥の子は、今年の稲藁を束ねて固く小縄で巻いて棒状にしたもので“お亥の子さん”(よそではボテとか藁ボテという。)と言いました。大きいものは直径15cm、長さは70cmくらいのものです。私が亥の子をついた昭和8、9年(1933、34年)ごろは、亥の子は尋常(じんじょう)高等小学校2年(13、14歳)までと尋常小学校(12歳以下)の男子で組織する“少年団”が行い、最上級生で指揮をとる人を“団長さん”と言っていました。私の住む田窪地区は四つの地区に分かれ、それぞれ分かれて家毎に亥の子をついて回りました。特に亥の子宿というものはなく、旧暦の最初の亥の日(一番亥の子)に1回だけつきました。どの家でも、秋の収穫期でいくら忙しくても、亥の子餅は味がよいといってお餅を必ず搗きました。『今晩はお亥の子さんだから、みんなで回ろうぞ。』言うて、みんなで誘い合い、家々をついて回るのが楽しみでした。“お亥の子さん”を地面に打ちつける土埃(つちぼこ)りで顔は真っ黒になりました。
 亥の子のまつり方は、一升桝(しょうます)(約1.8ℓ)に12重ねの小さい餅とユズを入れ、大黒様にまつります。亥の子の俗信と思いますが、亥の子の日から炬燵(こたつ)に火を入れました。また、つき終わった藁のお亥の子さんを屋敷内の柿の木や夏ミカンの木にぶら下げると、来年よく実がなると言い伝えられています。今も柿の木やミカンのなり木に吊(つ)り下げている風景があちこちに見られます。亥の子の日は、必ずダイコンを畑から引い(抜い)てきて、“つきダイコン”を三杯酢(さんばいず)にして、搗きたての餅を入れて食べました。亥の子の日の特別な料理はありませんが、ダイコン・ニンジン・サトイモ・揚げといりこを入れたダイコンの炊き込みご飯(醬油飯(しょうゆめし))は定番の料理でした。」
 今年(平成15年)は、一番亥の子の日が雨天であったため、二番亥の子の日に行われた。ここでも少子化の影響か、男女合わせた少人数の小学生のグループが、元気に藁の亥の子をついて回っていた。
 最後に、愛媛県内他町村の亥の子行事に関する習俗を少し記しておきたい。
 温泉郡中島(なかじま)町の亥の子は、石と藁の亥の子が混在している。その中でも、粟井(あわい)の大泊(おおどまり)地区では昭和40年(1965年)ころまで、一番と二番亥の子は石の亥の子、三番亥の子は藁の亥の子をついた。ここにも亥の子宿があり、その年に長男が生まれた家が宿元になって祝い、組中(くみじゅう)へ餅を搗いて配った。さらに、亥の子は正月の前触れだといい、よい亥の子を祝うとよい正月が祝えると言って丁重(ていちょう)にまつった。亥の子の晩には「よいお正月でございます。」と挨拶する慣習があった。
 さらに、亥の子の日に西宇和郡保内(ほない)町では、初嫁(はつよめ)の年は夫は100個の餅を嫁の実家へ送り、嫁の実家は99個の餅を返す慣習があるといい、東宇和郡宇和(うわ)町でも同じように、嫁の実家へ餅を送る慣習が現在も残っていると、亥の子にまつわる習俗が報告されている。