データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇伊予万歳のおこり

 まず、伊予万歳の起源についてです。
 今から約360年前の1635年(寛永12年)に、徳川家康の弟にあたる(異父弟)松平定行(さだゆき)公が伊勢の桑名(くわな)から松山城に入ってきていますが、その当時の松山藩の年中行事の覚書に、「上方より万歳太夫を招いて、年の初めを祝い、太夫と才蔵、かわるがわる踊るなり。」とこのように記されています。ここで上方と言うのは、知多(ちた)(愛知県)の尾張万歳のことで、この万歳を招いて、年の初めを祝って、藩主を慰安されたということです。これが伊予万歳の始まりです。
 ここに出てくる「太夫と才蔵、かわるがわる踊るなり。」というのは、伊予万歳で一番古い、柱揃(はしらぞろ)えのことです。尾張万歳の御殿万歳の中に、柱立てという題目で出てきます。新春に鶴と亀とが訪れ、家を建てる柱に神々を呼び込み、瓦を伏せると、そこへ七福神がやってきて、にぎやかに祝うという内容です。その後、太夫は、一座の監督的な立場となり、まじめな才蔵に滑けいな次郎松が加わるようになります。
 尾張万歳は二人で演じますが、伊予万歳では、舞台で才蔵と次郎松の二人が演じるだけでなく、舞台の上手に三味線、太鼓、拍子木が座り、歌も歌います。当初は、この柱揃えが中心であったわけですが、文化文政のころ(19世紀初め)になると、農民生活を題材にした十二支の豊年踊り、あるいは、義経千本桜や忠臣蔵のような浄瑠璃(じょうるり)、歌舞伎などの中の有名な場面、さらには、社会的な事件などを取り上げるようになります。例えば、溝辺騒動であるとか、宮島心中ですね。これが舞踊化されて、庶民の娯楽の芸能として、舞台で踊られるようになってきます。同時に、正月行事から村々の祭礼などでも催されるようになってくるわけです。