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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇戦前の風早万歳

 この万歳も、明治維新ころになると、松山の土居田の沢田亀吉翁によってわずかに伝えられていましたが、この亀吉翁が1896年(明治29年)に、元藩主の厚意で、東京の久松家に招かれて、万歳を舞うわけです。この席には正岡子規もおり、このときの様子を、「沢亀の万歳見せう御国ぶり」と、このように詠んでいますが、これが一つ大きく反響し、復興の機運が高まってきます。風早万歳も、このころに生まれたのではなかろうかと言われています。古いところでは、佐古と善応寺の笑楽(しょうらく)会がありましたが、この会は、風早各地、特に河野と粟井地区の愛好者が寄って作っていたもので、だいたい1908年(明治41年)ころできたのではないかと言われています。
 大正から昭和の初めになりますと、その会員たちが、自分の地域へ帰って、そこで万歳の会を作るようになりました。これが風早万歳の全盛期につながったのだろうと思うわけです。このころには、北条地区で、たぶん20から30の会があったように思われます。特に、粟井、河野には、7つから8つの会があり、風早万歳の中心になっていたのではないかと言われています。
 この風早万歳は、先ほど言った亀吉系統の万歳を伝えているわけで、その特色は、踊りの前に前付(まえつけ)役の才蔵、そして踊りの後に舞い納めの才蔵が出てきます。この三つで構成されているわけで、風早万歳は、前と後につく才蔵が特徴であるというようにいわれております。この才蔵は、その芸を身につけるのに5年から10年はかかるといわれるような素晴らしい踊りですが、難しさも一緒に備えた役どころで、これがまた、風早万歳の魅力となり、万歳を舞うのだったら、北条の万歳を習いたいというのが、市外の人たちの夢でした。風早万歳が昔の古い形を残した、才蔵の出て来る万歳だったからでしょう。この時代には才蔵だけの大会があり、優勝旗の取り合いをしたというようなこともありました。
 風早万歳のもう一つの特徴は衣装です。太夫さん3人は、黒の紋付きを着て、座って歌うのですが、踊り子は、その紋付きの両袖(そで)を取り、肩から落として、下から出て来る長襦袢(ながじゅばん)にタスキをかけて、頭に頭巾(ずきん)をつけるのです。これが本来の姿で、尾張の三曲(さんきょく)万歳の中にも、この姿は出てきます。
 昭和に入ると、男の長襦袢はちょっと地味ですので、女の長襦袢をつけるという人が各地で出てきます。そして、着物も腰のほうでまがる(邪魔になる)ということで、長襦袢の着流しになってくるわけです。今の万歳の姿というのは、女ものの非常に派手な花柄などの長襦袢の姿ですが、袴(はかま)がついたのは戦後です。戦前は皆、着流しで踊っていたのです。