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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇「アートの里づくり会議」の発足

 失礼します。ただいま御紹介いただきました日野です。砥部町にあります「アートの里づくり会議」の事務局長をしております。
 この会は、1982年(昭和57年)に砥部町にできた「里の会」が元になっております。この「里の会」には、窯元さんや公務員、商店経営者などいろいろな方が参加しておりました。まあ、砥部町の物好きが集まって、年に何度か酒を飲む会だと考えていただけたらいいと思います。
 1987年、当時「里の会」の世話をしており、今は「アートの里づくり会議」の代表をしている矢野徹志さんに、「酒を飲む会があるから、一回来てみないか。」と誘われたのがきっかけで、参加することになりました。根がいやしいものですから、酒につられて行ったわけです。そこに集まった方々は、職業も何も関係なく、ただ砥部町を愛する人たちでして、「砥部町がこれからどうあったらいいか。」など話し合っておりました。
 この「里の会」が行ったこととしては、砥部焼きを研究している山本典男さんが「砥部磁器史」を出版した時、出版記念のパーティーとともに砥部焼の野焼きなどをやったことがあります。
 この会が母体になり、現在の「アートの里づくり会議」ができたわけですが、そのきっかけは、次のようなことでした。
 「ふるさと創生」ということが世間で盛んに言われた時期に、砥部町が、「町づくりをどのようにすればよいか。」ということで、いろいろなところに諮問をしたり、コンサルタントを呼んだりして研究していたようです。その時、会の代表の矢野さんが、「これからの時代はアートがテーマになるんじゃないか。今まで砥部町は、『焼き物の町』、それから『ミカンと焼き物の町』というキャッチフレーズを掲げていた。しかし、そうすると、焼き物の町だったら、窯屋さんだけの町。それからミカンの町と言ったら、農業の町、というように限定されるのじゃないか。これから21世紀を見据えていくには、やはりアートという、もうちょっと高い目標を掲げたらどうか。」という提言をしました。矢野さんは、砥部町から全国に発信できることが何かないだろうかと考え、それならば、まずアートではないかと思いついていたようです。 1989年(平成元年)、砥部町も、「これからは『アートの町』ということで町づくりをしていこう。」というこの考えを採用し、私たちの会も1990年11月の会合で会長などをきちんと決めて、以後毎月1回会を開くようになりました。