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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇一夜城の所在地は?

 さて、戦国時代の武将として皆さん方がよく御存じなのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人だと思います。そして、彼らとほぼ同時期に、この地元で活躍した著名な武将としましては、土佐(現在の高知県)からこの地へ攻めてきた長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)と、その侵攻に抗した勧修寺左馬頭基詮(かんしゅうじさまのかみもとあきら)の二人が挙げられます。
 先ほども少しお話ししましたが、城辺町内やその周辺には、中世の城館跡が多く残っております。はじめにその幾つかを紹介いたしますと、まず、町役場の南西方向、町の中心部に諏訪(すわ)神社がありますが、ここが常盤城の跡です。また、町役場から北東方向にある愛宕(あたご)神社は、愛宕本陣と言われた御陣山(ごじんやま)城の跡です。そこから北東方向の緑地区には緑(みどり)城跡があり、さらに、そこからほぼ東の方向、お隣の一本松(いっぽんまつ)町(南宇和郡)の中央には猿越(さるごし)城跡があります。これらはすべて、先ほど申し上げました勧修寺氏が造った城です。このほかに勧修寺氏は、満倉(みちくら)城、垣内(かきうち)城を築城しているのですが、これらがどこにあったのかは分かっておりません。地元の勧修寺氏が造った城でさえ、もうその所在地がはっきりと分からなくなっているのですから、まして、土佐側の長宗我部氏が造った城の所在地があいまいになっていることも仕方のないことかとも思います。
 続きまして、一夜城の問題に移らせていただきます。さて、最初に土佐側の史料に基づいて少しお話しいたしますと、長宗我部元親は南予侵攻に際して21日間で、「ある城」を造ったという記述が、元禄16年(1703年)に出された『土佐軍記』という史料に見えます。また、『土佐軍記』よりも10年後にできた『土佐物語』という史料には、その城を造るには19日間かかったとあり、下々には堀を作らせ塀柵(へいさく)や櫓(やぐら)を立て、さらに本城より15町(ちょう)を隔てた所に「付(つ)け城(じろ)」を築いたとあります。『土佐軍記』に出てくる「ある城」とは、この付け城のことかと思います。そして、この付け城のことを地元では一夜城と呼んでいるのですが、この一夜城の所在地について、地元では古くから「不老(ふろう)台地説」と「下長野(しもながの)台地説」の2説があり、いまだに決着がみられていません。